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※パソコンのnotesに殴り書き(殴り打ち?)したものなので、少々乱雑な文章です。自分用だし、いいか。


2024年が、半分終わる。
もう半分か、まだ半分なのか、どっちを言ったら時間が早く過ぎたように感じるのか、いまだによく分かってない。日本語って難しいなあと思いつつ、私は毎日よほど画数の多い漢字を答案に並べている。
どうなんだろうか、どうなっているんだろうか?どうなっていくんだろうか。

2023年12月31日、とても心穏やかに年を越したことは覚えているのだけど。そこからかなり怒涛の日々が続いて、気づいたら2024年6月30日20時21分になっていた。
友達は社会人になっちゃって、大学院でそれなりに仲の良い人は見つけられたけど、いきなり態勢がひっくり返って疑心暗鬼になってしまったり、話すことないだろうなと思っていた人に親近感を抱いたり、あんなに波長が合っていた人が急に遠く感じたり、なんだか難しい。人間って、難しい。
自分が好きだったものも、前まではかっこつけるとかじゃなくて、本当に読書だったのに、最近は趣味が読書とお世辞にも言えないほど本に触れていない。

自分が違う人になってしまったみたいだ。

リカバリーできて、準備運動も万全にした状態で4月に挑んだはずが、やっぱりどこかで空回りしてしまっていたみたいで、最近は特に燃え尽き症候群的な感じで勉強へのやる気も出なかった。多分最初の方は何が何だかわからない不安感が私を掻き立てていて、それに追われるように必死にやっていたんだろうな。今は、良くも悪くも少し落ち着いて、ちょっと俯瞰してみているからこそ、その時あったエンジンがないんだと思う。

3月までの3ヶ月は、ぬるま湯のように居心地の良い環境で自分をほぐして、ゆっくりと自分を見つめ直す時間だった。4月からの3ヶ月間は、水風呂のように身の引き締まる新しい環境に入って、その衝撃や反動から自分という人を否応なしに突きつけられる時間だった。真逆のようで、やっていること自体は常に同じなのかもしれない。時間はいつも流れている。水のように。

好きな人の好きだと思う瞬間も、よく見逃すようになった。前はあんなに一緒に享受できた余裕や、余白を、羨むようになってしまった。羨み。妬み。私の原動力になってきたそれは、とても醜い。醜いからこそ、燃えた時の火力は強いのだろうけど、燃える、燃やすまでの労力が。火になる前に、プスプスと音を立てながら燻って、よくわからない細い煙を出して消えていっている気がする。その結果、自分の近くにいたいと言ってくれる人に対して、何かが違う、という違和感とともに、その人からゆっくりとでも確実に、距離を置いてしまっている。申し訳ない。本当にごめんなさい。注いでもらっている愛を両手で受け止めずに、目の前にだらだら流している感覚だ。なんでこんなことになっているんだろう。疲れているのだろうか。疲れているだなんて言い訳なんじゃないだろうか。でも、他になんて説明がつくんだろうか。

自分への愛情は、前に比べてよりそそげている気がする。前は蚊のようだった自分の心の声は、少し耳をすませば聞こえるくらいにまではなってきた。それは、進歩。案外朝起きれるところとか、一定程度頑張った時にご褒美をあげられるところとか、自分の大切な人が自分から離れていく感覚が何よりも怖いくせに、自分は大切な人から距離を置いてしまうところとか。矛盾もいいところである。やっぱり人間は難しい。自分への愛情に注ぐところに労力を割いているから、他の人には注げないのだろうか?だとしたら、それは注げなくて然るべきなのではないだろうか?よく「自分を愛せない人は他人を愛せない」と言うけれど、そうしたら今の私に私以外の誰かを愛するキャパシティは残っているのだろうか?

果てしなく遠いゴールのために、一歩一歩踏み締めていく感覚は好きだ。少しの前進も、毎日積み重ねていけば大きな飛躍になることを知っているから。今までの経験から、小さな羽たちが私の翼となることを知っているから。辛くなる時もあるけれど、取り組んでいるものへの熱意と、「おもしろい」という感覚は、未だ拭えないものとして私の中に居座る。このまま居座り続けてくれればいいのだけれど。そんな微かな願いを持ちつつ、やる気を削がれるような課題たちに体当たりしている日々だ。それでも、昔の私が見ている。私の小さな瞳孔の中を、その奥まで見通すかのように、まっすぐと見つめている。7ヶ月前に大学院入試を受け終えて帰路に着く自分も、1年8ヶ月前にベッドでうずくまっていた自分も、4年9ヶ月前に指定校推薦の結果を待ちぼうけていた自分も、10年前に中学受験の失敗を引きずっていた自分も、17年前に訳も分からないまま英語を必死に勉強していた自分も。その全ての自分が、今の自分を見ている。見つめている。半ば監視されている感覚だ。でも、彼女たちは怖いのだと思う。いつ、今の努力が報われるのか。どうやって、この日々が正当化されるのか。何よりも、自分は幸せになれるのか。
22歳のあなたは幸せだよ。過去の自分、一人一人を強く抱きしめてあげたい。あなたは、大丈夫。今は毎日泣いているだろうけど、絶対にいつか光が見える。私は光を見ている。今。唯一受験した大学院にやっとの思いで入学し、大好きな学問を朝から晩まで勉強している。大好きな日々であり、大切な日々である。だからこそ、過去の彼女たちの流した涙が無駄にならないように、私が光を全身に浴びて、地に足をつけて、その時がくるまでは飛び出す準備をするのだと思う。

思い悩むことは尽きない。それが人生というものなんだろう。死ぬまで悩んで、転んで、また這い上がって、よろけながらも走る。別にいつでもポジティブでいる必要だってない。それでいい、をもっと気軽に言えるようになりたい。感情の波をよりコントロールできるようになりたい。波に酔って気持ち悪くなるような新米船乗りでなく、荒波がきても、心の中では焦っていても平然と対処できるベテラン船乗りになりたい。22年間も一緒なんだから、そろそろ中堅くらいにはなれたっていいだろう。水は流れている。時間のように。

たまにはセンチメンタルになったっていい。過去の私が目を輝かせながら今の私の背中を見てくれるのであれば、私はなんだってする。過去の私を喜ばせることは、今の私を喜ばせることでもあるのだと思う。自分を一番愛せるのは自分であるということを、身をもって体現できる人になりたい。


と、ふと思った2024年前半最終日。

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