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アデュウ <1966> 【監修済】

木管五重奏のための

 1966年6月に、オーボエ奏者のヴィルヘルム・マイヤーからアジア各地での演奏旅行プランのための新作木管五重奏曲を私に作曲するよう求められました。彼の木管五重奏団は私の作品『ツァイトマッセ』をヨーロッパ各地で、最初は私自身の指揮で後には指揮者なしで、数多く上演していました。『ツァイトマッセ』を作曲するために費やした時間の量を思い出すと、木管五重奏のための新作には数カ月必要になるだろうと思いました。しかしながら、その時に私は毎日『ヒュムネン』のためにスタジオで作業していましたので、その提案を引き受けることができませんでした。
 数日後に、私はマリーとドライブをしてオランダのデン・ハーグへピエト・モンドリアン作品の展覧会へ行きました。それは私がそれまでにみたうちでも最も完璧なモンドリアンの絵画のコレクションでした。垂直水平に交差したたった数本の黒いラインと2、3の原色によって、大胆なプロポーションをつりあわせている、多くの「コンポジション」を丁寧に鑑賞しているうちに、私は口走りました。「絵の要素を選んでおいて、プロポーションを観察することに没頭し、交差線と白とカラーの領域の間の関係に完全に満足するまでテープ(それを彼はラインの代わりに作業のために使用し後で絵の具を塗った)を再配置していたとしても、モンドリアンはある日の午後だけで作品を完成させたことだってあったはずだ。なぜ自分にはそのようなことがこれまで一度もできないのだろう?なぜいつも一作品に数カ月も数年もかかるのか??なぜ、一つの作品を作曲するためには最高に集中した長い期間が必要だという感じがするのだろう???」
 この体験には非常に心を乱されました。家路につくと、私は五重奏を書いてほしいというマイヤーのリクエストを思い出していました。それに彼の息子ヴォルフガング・セバスチャン・マイヤーのことを思い出していました。この才能に恵まれたオルガン奏者は1966年1月10日の午前8時少し前に、ローマへ向かう旅の途中、コモとミラノの間をドライブしていて、突然に途切れていた未完成の高速道路出口へと入りこみ、事故死してしまったのでした。29歳でした。死の直前に、彼のためのありうべきオルガン曲のために、私は彼と一緒にオルガンで作業をしていました:私はそれから日本へ旅立ったので何が起こったかを知ったのは帰国してからのことでした。
 デン・ハーグから帰宅すると、私は仕事部屋に閉じこもり、そして2日間---土曜日と日曜日---私はヴォルフガング・セバスチャン・マイヤーのための『アデュウ』を作曲して手稿譜を書き上げ、月曜日には彼の父親に贈呈しました。初演は1967年1月30日にカルカッタにて、1967年2月6日に香港にて、そして公式の世界初演は1967年2月10日に東京で行われました。報告によると日本の聴衆はこの音楽をとりわけ好んだそうです。
 それ以来、他の木管五重奏団も『アデュウ』を演奏してきました。私の聴いたすべての録音は充分に良いとは思えませんでした。各パート譜は簡単に見えます。しかし私自身が参加した最初の譜読み時点(パリ1969年)で気付いたのですが、実際には非常に難しいのです。楽器間の強度のバランス、自由にカーブを描くグリッサンド、同期するグループ、時折の急速な演奏方法の変化を実現するためには、たくさん練習し、徹底的に相互に聴きあうことに慣れたアンサンブルが必要です。そして、その上で、演奏家は、この音楽の内部で振動している死への近接を、深く経験し、そしてサウンドとして構成できなければなりません。

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 1973年3月9日から16日にわたって、私はロンドン・シンフォニエッタを指揮してイギリス、イタリアそしてドイツを演奏旅行しました。6公演のプログラムは:

『クロイツシュピール』-『ツァイトマッセ』-『ストップ』
『コントラ・プンクテ』-『アデュウ』-『イレム』

 『アデュウ』の録音はドイツ・グラモフォンのために1973年7月11日の午後3時から午後7時にウェンブレィ(ロンドン)のCTSスタジオにて行われました。録音監督:ルドルフ・ヴェルナー;録音技師:ジョン・リチャード、ハインツ・ヴィルドハーゲン。
 演奏家:セバスチェン・ベル(フルート);ジャネット・クラクストン(オーボエ);ジョン・バターワース(ホルン);ウィリアム・ウォーターハウス(バスーン);アントニー・ペイ(クラリネット)。
 指揮者:カールハインツ・シュトックハウゼン

 シュトックハウゼン出版社は1991年にこの録音を権利収得いたしました。

 『アデュウ』セットアップ
 <図>略

[翻訳:山下修司、監修:清水穣]