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「直感音楽」についての質疑応答 【監修済】

(この討論は1971年11月15日ロンドンの現代芸術協会(ICA)での講演「ライヴ・エレクトロニクスと直観音楽」のあいだに行われました。講演と討論は撮影(Allied Artists,London)され、フィルムから文章におこされました。討論の前にシュトックハウゼンは『エス』のテープ録音を演奏し、講演後には『上方へ』の録音を演奏しました。)

シュトックハウゼン:今お聴かせしたのが『エス』です。先程述べたように、私はこの音楽を「直観音楽」と呼んでいます。『エス』のようなテキストとともに、我々は通常の即興演奏で使用されるようなあらゆる体系的方法を排除しなければならないからです ---「即興演奏」という言葉を普通の意味で理解するとして、ですが。そこで、私は「直観音楽」という言葉を使いたいのです。「直観音楽」が将来どのように発展していくかはこれからわかることです。どなたか質問はありませんか?

質問:思考を止めているのに、どうして意識がより高い中心へと開かれているなどと言えるのですか?あなたがやっているのは1920年代にシュールレアリストがオートマチック・ペインティングで行っていたことではないですか?彼らは、思考を停止することで、意識を潜在意識、無意識へと開くのだと言い、そしてあなたはより高い中心へ自らを開くと言う。それはシュールレアリストは精神分析の影響のもとにあったし、そしてあなたは東洋哲学の影響のもとにあるからではありませんか?

シュトックハウゼン:ただ個人的な経験から言うのですが、「直観音楽」は---できるだけ ---心理学と無関係であるべきものです。つまりそれは潜在意識や無意識とは何の関係もありません。演奏者はむしろ、超意識の、つまり彼らの中に入り込んでくる何ものかの影響下にあるべきなのです(演奏結果を聴けば、彼らが超意識の影響下にあったことが分かります)。それらのテキストから生じた音楽にほんの少しでも似ているようなものは、全音楽史のなかにも、私たちがこれまでにやってきたことのなかにも、存在していないのですから。と、いうことは、その「何ものか」とは私たちが超意識と呼ぶものであって、潜在意識や無意識ではないはずです。

質問:別々の演奏のあいだに類似点があると言われましたね。

シュトックハウゼン:そうです。興味深いことに。

質問:類似点ということについて話していただけますか?

シュトックハウゼン:『エス』を例とすると、私たちがこれまでに演奏した様々なヴァージョンのすべてが、とても断片的で短い動きや音響ではじまります。それから徐々に長めの音があちこちに現れてきますが、誰かが演奏しはじめるやいなや、それまで演奏していた人は止めるので、まるで音がお互いに切断しあうかのようです。あらゆるヴァージョンにおいて、そのあと持続音の重複が増えていきます。つまり一人の演奏者が何かを演奏すると、別の人が一つの音あるいはある音のパターンを演奏しはじめ、それでも前者が演奏をつづけられるようになるのです。それからとても速くなります。私がこれまでに聴いたすべてのヴァージョンで、ゆっくりとした推移はひとつもありません:突然、その場の雰囲気のなかの何かに、演奏者全員がはっきりと魅了されるという状況に到るのです。演奏者はサウンドの中に完全に没入し、考えることなく ---つまり全く自発的な行動で---直ちに演奏にうつります。こうして非常に稠密な構造が現れ、しばらくのあいだ保持されますが、それは演奏者のうちの一人が文脈から外れた音を鳴らす瞬間までです。すると急に長い沈黙が訪れます。演奏者たちは前に演奏していたものを続けようとしますが、うまくいきません。
 ご質問の類似点について、私は任意の---より高いあるいは低い---音楽的領域において展開するさまざまな組織の展開と、厳密に関連させて説明することもできますし、さらに進めて、もっと非常に特殊なこと、たとえば音響の層の変化、音域の変化について語ることもできます。

質問:これまでの演奏で、あなたからみて失敗したものはありましたか?

シュトックハウゼン:私たちが少しも演奏できなかった、という意味ですか?

質問:いいえ、演奏者の創造的感覚にとってダメな演奏と思われるものはあったでしょうか?というか、そもそも直観音楽にダメな演奏というようなものがあるのですか?

シュトックハウゼン:当然です。ダメな演奏の最初の徴候はクリシェの出現です。すでに構成された素材が現れ、既知の何かのように響くときです。そのときに失敗したと感じます。私たちのなかには一定の自動的な取り込み機能があって、その機能は取り込んだもののすべて ---ガラクタも---を、やはり自動的に吐き出すのです。そうなったら演奏を止めます。

質問:ダメなサウンドを創造過程から排除する方法はありますか?

シュトックハウゼン:もちろんです。「直観音楽」を演奏するときにはどの演奏者に最も自制心があるかがすぐに明らかになります。批評眼があるかどうか、身体面と精神面でちゃんとバランスがとれているかどうかなど、演奏者はすぐに本性をあらわします。ある演奏者はとても簡単に混乱しますが、それは彼が聴いていないからです。人の音を聴かない、それがたいていダメな演奏の原因です ---他のすべての音を覆ってしまう音量を出し続けながら、自分で気がつかないというダメ感覚。ある状況で全くの全体主義者になる人もいて、アンサンブルの演奏を実に恐ろしい状況に導きます。サウンドが極端に攻撃的で破壊的になり、コミュニケーションはとても低い水準でしか機能せず、破壊的な素材が蔓延します(お分かりのことと望みますが、私が「低い」水準というときにはただ単純に「きたない」とか「美しい」というのではなく、肉体的に、身体的にお互いを傷つけあっているという意味です)。さらに、演奏者全員が一斉に演奏したりします。「絶え間なく演奏しないこと」、そして「絶え間なく反応してばかりいないこと」これは最も重要な基準の一つで、繰り返し思い起こすようにしなければなりません。
 演奏家というものは、作曲家が決めた通りにただ演奏せよと数百年に渡って強制されてきて、今や「直観音楽」では絶え間なく演奏できるぞというわけで、彼らは弾いてばかりいるのです。こうして演奏はすぐにとても大音量になり、どうやってふたたび抑えればよいのか演奏者の誰にもわからない。誰もが自分の演奏を聴かせたがるからです。大音量になることは簡単なことです。しかし、どうやればふたたび弱音に戻れるのか?結局、人はこう考えます:「どうせ誰も聴いてないのだから、私は演奏を止めたほうがよい」。
 これらがグループ行動の、グループ演奏の一般的な原則です。

質問:それはつまり、そこから音楽的な価値基準が生まれるという意味ですか?

シュトックハウゼン:私たちが音楽の演奏のためにこれまで一度も学んだことのない、全く新しい基準です。グループで演奏して初めて、そして特に新しいメンバーが入るそのたびに発見される基準です。新しいメンバーが私たちのようなアンサンブル演奏に慣れるには、たいていかなり時間がかかるのですが。

質問:集合的な相互作用に関していえば、グループのメンバー数には一定の限度があるはずでは?

シュトックハウゼン:その通りです。だから、私はいつも「大勢」とは7人からはじまると言っているのです。何事も7人以上だと詰まりすぎるんです。グループが7人より大きい ---8人や9人---と、もう並外れた人格者が必要になります。最良の数は4名か5名です。私の意見では、グループが6名でも、いつも六重奏というのではなく、誰かが演奏中に比較的長い時間にわたって静寂をまもり、そしてソロやデュオやトリオとして演奏に加わる正しい瞬間の訪れを正確に知るためには、かなりの自己鍛練が必要になります。

質問:以前から存在しているグループ形態、例えば弦楽四重奏という形で、そのような試みを行ったことがありますか?

シュトックハウゼン:いいえ。

質問:演奏の質は演奏家の技術的能力によって左右されますか?

シュトックハウゼン:されるともされないともいえます。例えば不器用な演奏では、直観は充分に働くことができません。道具・楽器が訓練されていないわけです。すると演奏者は肉体に従属するようになり、能力以上のものを常に求めることになってしまい、結果としてまたもやダメな演奏が生じます。技術面については、別に考える必要のない人物が、直観音楽では最適です。

質問:つまり自分の楽器を完璧に習得している人物ですね。でも銅鑼についてはどうです?それは...

シュトックハウゼン:まぁ、ご察しの通り、長いあいだ銅鑼とともに生き、銅鑼とともに実験してきた人ということになりますね。リストのエチュードをすべて弾けるような人物のことではありません ---そういう人物と共演することはかなり困難でさえあります、というのも、そういう人はリストのエチュードを、もはや自分のはまりこんでいるシステムと切り離しては考えられないからです。実際、ほとんど不可能でしょうね、彼がそのような予め形成済みのテクニックすべてから逃れようとして、本当に集中するなら話は別ですが。私の念頭にあるのはむしろ、楽器と完全に一体となっていて、楽器をスウィングさせるためには楽器のどこに触れ何をするかを知っているので、演奏者の内で生じる振動を、外的な楽器の振動へとダイレクトに変換させられるような人物なのです。もちろん、これこそが全ての秘密であり、最短の道なのですが。

質問:あなたがグループの一員であり、与えられたテキストに従って反応すると仮定します。あなたは何も思考しないとします。そのとき、どうやってあなたは一つの音を創造するための行動を起こせるのでしょうか?さらに、あなたにとって意識性(何かを意識している状態)とは思考の一形式ですか、それともなにか別のものですか?

シュトックハウゼン:もし自分がこれこれをしていて、共演者はほかの何かをしている、と私が知るとき、その認識は思考の一つの行為であり、私はそれを思考と呼びます。あなたの仰る「意識性」とは何のことですか?「私はここに座って演奏している」と私が考えているということですか?あるいは、それですらなくて、「ただ演奏している」と考えることですか?

質問:私が言いたかったのは、他の共演者の出す音を意識しているということで...

シュトックハウゼン:いつでもです、当然のことです---人は音のなかにいるのですから...

質問:ではあなたは意識性を思考とは区別されるのですね?

シュトックハウゼン:確かに、そうです。思考は心的なプロセスです。つまり予定をたて、想起し、記録し、計算すること ---これら様々な心的活動のすべてが思考なのです。例えば、計画の作成を要求する作品があります。毎回次のイヴェントを推測して、そして推測した通りの方法で演奏しなければならないのです。だから、人はまず音楽的なイヴェントを考えぬいて、それから演奏するわけです。

質問:でも、あなた方はお互いに反応しあっているのではありませんか?私のいう意識性とはそのことなのですが。

シュトックハウゼン:私たちはその場の「気」に対して、あるいはその「気」の向かう方向へと反応し、行動しています。実際にはそれは反応ではなくて、私たちはサウンドに従事しているだけです ---「気」のなかにあるサウンドを周りから削ったり加えたりして形作るのです。

質問:シアターピースの『上と下』では、上演前に楽器奏者はまず『クルツヴェレン(短波)』を演奏し、俳優がそれを傾聴することになっていますが、それはなぜですか?

シュトックハウゼン:それが最良の訓練であり最良の刺激だと考えたからです。『クルツヴェレン(短波)』では、演奏者はラジオから発される予測不可能な物事に反応しなければなりません。彼らは短波の素材に自発的に応じなければなりません。同様に、シアターピースでは、ナレーター ---男性、女性、子供---から自発的に繰り出される言語的素材に、即座に反応することが期待されています。同じように、男性、女性、そして子供の俳優には、演奏者のサウンドによって呼び起こされることを直観的に口に出すことが求められています。ところでこれを訓練するためには、ラジオの前に座って聴いたものに反応し、次に何が来ようとも常にそれと入れ替え、さらにラジオを聴いていて思いついたことを即座に行動に移すのが最も良いことです ---こうすると、自分で自分を欺くことができません。

質問:あなたが言うには、あなたがこの音楽を「直観音楽」と呼ぶわけは、即興演奏が特定の体系に...

シュトックハウゼン:様式...

質問:...特定のパターンに常に縛られているからだと。では、グロボカールのグループのような即興演奏についてはいかがですか?

シュトックハウゼン:彼はそれを即興演奏と呼びますが、私ならそう呼ばない方を薦めますね。

質問:それではあなたは何と呼ぶつもりですか---直観?

シュトックハウゼン:そういうことです。

質問:グロボカールもそう呼ぶべきだと思いますか?

シュトックハウゼン:今あなたは何を話そうとしていらっしゃるのか、意見?あるいは分析?

質問:私は、即興演奏と直観の間の違いがどこにあるのかということを、きちんと知りたいだけです。

シュトックハウゼン:「直観音楽」において、私は音楽的に様式として確立されているすべてのものから遠ざかろうとしています。歴史が示しているように、即興の音楽では、常になんらかの基本的な素材--- リズム的あるいは旋律的あるいは和声的素材---が存在し、それに即興は基づいているのです。例えばグロボカールのグループで、演奏者が「何もないところから」演奏するつもりであっても、そしてたしかに何も決められておらず、見たところ事前の同意もないとしても、あきらかに打楽器奏者のドルーエは、よく知られたインド音楽からタブラのリズムを演奏してしまっていることがあるのです。彼はインドのタブラ奏者から一度短い期間タブラの演奏を学んだことがあり、その様式的な素材が自動的に出てきてしまうわけです。全体としてグロボカールのこの音楽は、事前に確立された様式をもつものではありませんが、しかし特定の様式的素材が音楽に紛れ込んできます。私はまさにそれを回避しようと言うわけです、直観に完全に集中するためにね。クラリネット奏者のポータルでも同様です。いつも彼はノってくると ---演奏者達が「熱く」なっていると---フリー・ジャズ奏者として何年も演奏してきた典型的なメロディーやフィギュールを吹いてしまいます。つまり彼が共演したグループの慣用表現、そしてフリー・ジャズの伝統一般から由来する特定の慣用表現です。そんな瞬間に、人はある特定の様式のなかにいる自分自身を見い出します。たとえ演奏者にそのような様式を演奏するつもりがないとしても、彼らはそれを消し去ってはいない...

質問:・・・でも体系化されたパターンは即興演奏の一部分ですよ。

シュトックハウゼン:ええ、歴史的にはそうでした。

質問:いいえ、そのはずだし、これからも常にそうでしょう---あるいはこれまで常にそうです。

シュトックハウゼン:どうでしょう、それは全く私たち次第です。私のやることを「即興演奏」と呼ぶつもりなら、「ただし、即興演奏という用語はいまやとても広義で、人によってその意味は異なる」と付け加えなければなりません。でもそんな場合には、新しい用語をたてるほうがましです。だから提案するのですが、バロック音楽、インド音楽、いくつかのアフリカ音楽 ---例えばモザンビークの音楽---を即興音楽と呼んでおこうではありませんか。そして即興演奏とはそんな音楽のことにしておきましょう。

質問:そうするとフリー・ジャズは?

シュトックハウゼン:それは「フリー・ジャズ」です。なぜなら「ジャズ」という言葉は特定の様式を意図しているからです。ジャズはなにか具体的なものを求めます。それが、プレイヤーの演奏を突き動かすのです。

質問:私が今日テープ録音で聴いたものは、西洋「クラシック音楽」でした。クラシック音楽の分野で教育を受けた人々の演奏だった、とも言えたでしょう。

シュトックハウゼン:「クラシック」とはどういうことですか?あなたのコメントにはお手上げです、というのも、私にとって「クラシック音楽」とは、すでに作曲されてあるものですからね。そこにはリズム、和声、旋律、形式の一定の特徴がありますが、そのなかのいずれも、私が紹介した音楽のうちには見いだせませんが。

質問:演奏者が社会的に洗練されていること、私たちが今暮らしているこの特有の文化の出身であることが、音楽的身振りから分かったということです ---例えばそれがエスキモーだったら分からなかったでしょう。

シュトックハウゼン:それはもちろんその通りです。私に何か言うべきことがあるでしょうか?つまり、私にはその状況は変えられません。

質問:そう、だからその意味でそれは即興音楽なわけですよ、文化的枠組にはめ込まれているんだから。

シュトックハウゼン:もしシリウス星から人が来て地球の音楽を聴くならば「これが地球の音楽というわけだな。地球人がどんなに懸命に直観的であろうとしても同じこと、シリウスと比較すれば、直観はいかにも地球的に回路付けられている」と言うでしょう。もちろん、そうしたければ、そういう論じ方も可能です。私たちはまだ充分に普遍的=宇宙的ではない、と、こうあなたが仰りたいのなら。

質問:まるで異質なバックグラウンドをもった音楽家と協同作業をしようと思いますか?

シュトックハウゼン:もちろん。私はそうしています。私はこのグループに拘束されていません。何年も前から、あなたがちょうどいま言及なさったことから離れられない数名の演奏者を取り替えようとしています。彼らの限界があまりにも大きいことがはっきりと見えていますから。彼らはある一定の限界に達してしまうとそれを越えることができません。こういう音楽家がそれ以上発展しないことに私は気づいています。彼らの可能性は終わってしまったと思われるのです。それは、彼らが音楽だけでなく、それと同時に人間性をもさらに発展させようとしないからです。

質問:あなたがあるグループのなかで「直観音楽」を作るように、音楽という方法で真の内的な文化を発見することが、正しい道である、と考えているのではないですか?

シュトックハウゼン:それについて簡単に話すのは難しいですね。基本的には直観音楽とは、直観と呼ばれてきたもののすべてと接触するという意味なのです。伝統的な音楽では「作曲家はほんの短い直観的瞬間を得る」と、私たちはよく口にしています(彼は市電に乗っていて、あるいは散歩途中にインスピレーションを得ると、その後数週間にわたって、このいわゆるアイデアだとか音のヴィジョンに取り組む、等々)。人はそのようなインスピレーションを夜空に閃く稲妻のように想像しています。ここではっきりさせておきたいのですが、私は作曲家・演奏家としての私自身 ---そしてまた私の共演者---のために、直観の稲妻のような瞬間を意識的に拡張する技法を見いだそうとしているのです。手持ちぶさたで、直観の訪れを徒に待たなくてもすむように、私が仕事をはじめたいときに直観を「作働させる」技法。というのも、よく間の悪いとき、つまり時間がなかったり、ちょうど誰かが私と何か別のことを話そうとしていたときに直観はやってきたものでした。だから直観を起動したり停止したりできる技法を見つけ、そしてこの直観的作業の時間を望むかぎり長びかせなければなりません。そのためには、音楽を作るための全く新しい技法を見いだす必要があります。よく削った鉛筆と消しゴムを用意して一枚の紙の前にただ座って、それから直観が与えてくれるものを書き留めるような訳にはいきません。直観には直観の速度があって、それは書く速度とは決して適合しないからです。
 そしてここに核心があります。600、700、800年間にわたり、私たちは直観的に経験される音楽を、視覚的に翻訳すること、それを我々の合意に基づいた一つの体系のなかで記述することを学んできました。そのほとんどは機械的な作業です。既に述べましたが、私のすべての作品においては、いつもほんの少しだけの直観的瞬間があって、それが ---後から判ることなのですが---数分間にわたる部分全体を決定しています。それから私は数日や数週間にわたって、まるで機械工のように働きはじめます。細部を計算する等々です。でも、私にはいつも最初の瞬間から、自分の求めるものが分かっていました。と、いうことはつまり、ほとんどが全くの機械的作業にすぎないということです。創造的な仕事に携わっている人なら誰でも知っているように、天才とは95%の努力と5%の直観です。こういう考え方はできるだけ速く終わらせるべきだと言いたい。それは、グーテンベルク以来、いや、音楽を書き留めるということを始めた最初の僧侶たちの時代以来、私たちが巻き込まれてしまっている、信じられないほど込み入ったプロセスに根ざしています。かつては作曲家と演奏家のあいだの媒介として、紙の上に音楽を書いて、誰かに渡すことが不可欠でした。その誰かは、ちょうど音楽的郵便の集配人のように、それを例えば別の街へ配達すると、他の音楽家がそこでそれを読み取り、再び音へと変換させることができたわけです。今日、この経過はなんとなく終わろうとしています。「手紙」はもう要らないのです。私は飛行機で自らそこへ移動できますし、またはテープを送ることができるのですから。
 だから私たちは、直観に固有の時間を見つけ、そしてこの直観の時間のなかで作業することによって、直観が持続するように、そして「ちょっと待って、まず書き留めなければ」と中断ばかりしなくてすむように、全く新しいプロセスを発展させなければなりません。書き留めたりしているあいだに直観は再び逃げ去ってしまいますからね。この「ちょっと待って」は、音楽分野のほとんどの芸術家にとって、フラストレーションの原因です。少なくとも作曲家にとってはそうです。つまり、音楽の「書き」手という伝統的作曲家のイメージはもはや妥当しないのではないでしょうか。

質問:もしあなたが来週『エス』のような作品を再上演するとしたらどんなことになりますか?ある方法で一度上演した後では、あなたはきっとその演奏の特定のディテールを思い出すでしょうし、つまり似たような演奏になってしまうのではないですか?

シュトックハウゼン:いいえ、私は何も反復したくありません。

質問:全く違う演奏になるとお考えですか?

シュトックハウゼン:ひとたび直観を追跡する手がかりを得た者は、さらにこれまで学んできたこと ---反復の特徴、再現の仕組み---をも放棄しようとします。間違いなく新しい演奏は全く違うものになるでしょう。

質問:ホール内の人々の直観を活性化することも可能だとお考えですか?

シュトックハウゼン:聴衆からのフィードバックのことですか?

質問:ええ、聴衆からのです。そのことが、直観的なもの---また瞑想的なもの--- によって、演奏者と聴衆を一つの輪で結ぶことになると思うのですが...

シュトックハウゼン:確かに。もしホール内の人々が悪い波動を発するなら、何もうまくいきません。それがさらに強くなると、もっとひどい状態になります。否定的な人々がいるとき、あるいは一部の人々がとにかく敵対的で、建設的なもの全てに対して破壊的な波動を放つときには、気分が悪くなってしまいます。いくつかの場所で、私たちはコンサートをうち切らざるを得ませんでした。その理由はそこの人たちには見当もつかなかったでしょうが。でも、そこは滞在してあるプロセスに従事する、つまり何かを形作るのに相応しい場所でないと、私たちには分かったのです。これを見ても分かるように、聴衆の存在はこれまでになく重要になります。しかしそれは、聴衆の多くが想像するような意味ではありません。誰かが演奏して、それを他の人が消費することは文明社会の恩恵であると、たいていの人は考えています。大衆に音楽を ---例えば、一回限り永遠に固定された私の音楽を---供給すべきである、と。しかもその供給とて、伝統的な一方通行の情報手段のなかで行われるに過ぎず、その最も極端な形態がレコード、ラジオそしてテレビなのです。
 これらの状況をいま「批判的に」変えようとする一派の人々は言います「よーし、じゃあ笛でももってこい、床を踏み鳴らせ、跳び廻れ、音楽家と討論だ、みんな一緒に音楽をするんだ、全員で創造的な過程に参加するんだ!」。そのときすべては恐ろしく原始的なものに変わります。人々は心の準備もできていませんし、また本当に素晴らしいものを創ろうという気もないのですから。要するにたんなる自己顕示欲から騒々しいイヴェントに参加したいだけなのです。近年様々に執り行われてきた聴衆参加型のコンサートでは、たいてい小さな楽器が配られたり、あるいは一緒に声を出して一つのサウンドを産みだそうというのがよくみられます。ときに、誰かがそこここに介入したり、全体を部分ごとにはっきりさせようとすることもあります。そういう誰かが単にいなくて、起こることが起こるだけの場合もあります。ふつう数分のうちに、それはひどくうるさい騒音になり、もはや誰にも自分の演奏が聴こえません。そのあとも、ひたすらうるさいカオスが続き、結局人々は疲れて切ってしまうわけです。
 けれども、新しい方法で参加する全く別の方法があるのです。それはよくインド音楽に見いだされます。聴衆の小さなグループが演奏者を囲んで座り、ジェスチャーと声を使って「批評」を加える。演奏者は聴衆のこれらの合図による素晴らしい方法で励まされて、それに相応しく反応する。そこには聴く者と演奏する者のあいだの交流があります。そのとき、心の中で音楽的波動を一緒に発生させる者と、弦を弾く者のあいだに、もはやそれほど大きな区別はありません。手や足や舌の複雑な動きというような、身体的な性質は忘れ去られ、一緒に集い会って素晴らしく同調した人々のあいだの、信じられないようなフィードバックに到達するのです。演奏者がそのような聴衆のまえで演奏するときには、まさしく聴衆によって、最も途方もない事が起こるのです。

質問:では「高度な理解」がない人々でも「直観音楽」をすることは可能だとお考えですか?

シュトックハウゼン:もちろんですとも。それは、いままで知らなかった人に一目惚れするようなものです。

質問:私はグループの各メンバーが互いに互いを知り尽くしていないと、本当に優れた「直観音楽」は生まれない、と考えるところでしたよ。

シュトックハウゼン:あまりお互いに知りすぎていると---いまの御発言にもありましたが ---かえってうまくいかないこともあるんです。逆に言えば、新しい演奏者からはものすごくインスピレーションを得られるわけです。演奏者同士を突然に引きよせる、一種の磁気作用があるんですよ。彼らはお互いに同調していると感じます。でも、その同調状態が突然に止んでしまうことがあって、「ふむ ---勘違いしていた、彼はできないし、私もできない---私たちのどちらにもできない」と感じることになる。ただ、一般的には、演奏者がお互いによく知っていることがベストですけどね。

質問:もう一度、様式と「直観音楽」の関係に戻りたいのですが。さきほど演奏なさった作品は、何らかの点でシュトックハウゼンの作品だと認識できるのではないですか?つまり、他の作曲家が直観的な演奏のためのテキストを書いた場合と比較してですが。もしそうなら、他の作曲家のではなくあなたの作品として認識される何かによって、あなたはやはり一定の枠の中にはまりこんでいるのではないでしょうか?

シュトックハウゼン:ええ、それは本当です。私の作品を今まで演奏してきた人々にとって、私が存在しないと考えることは不可能です。私という人間が存在し、自分たちのする事はシュトックハウゼンという名前と関係している、という意識が、彼らをとても特殊な物事へ導くわけですからね。たしかにそうなのです。私の知っている音楽家がみな同意見でしたから。シュトックハウゼンという名前として、私は一つの神話です。一つの肉体があり、そしてこの肉体にはレッテルが、名前があります。この肉体がもはや存在しなくなると、名前は、彼がもし生きていたらあれもしただろうこれもしただろうという数多くの意見や確信を含めて、その名前のまわりに結晶化したあらゆるものと一緒に、完全に神話へと変化します。私についてすでに完成されたイメージを持っている数多くの人がいます。シュトックハウゼン神話ですね。そしてこの神話はひとりでにいろいろなものを産んで増えていきます。だから、私とは私自身の神話なのです。私にとってもそうなのです。でもそれは、私がこの肉体とその伝記にだけ興味がある、という意味ではありません。というのも、肉体とは数多の現象の一つにすぎませんし、実際私にとってはそれ以外の現象もまた、今の私の身体と同じように、謎めいているからです。同様に、この一つの名前だけに興味があるというのではありません。名前は私を通じて現われて来る何かを意味している・・それが私の知っていることのすべてです。私がいつ何をしても、ある種の物事は、私が正しくあるべきと考えるようなありかたで、正しくなっているはずです。つまり、私を通じて現れる完全無欠さというものがある。それは、私が完全に自己同一化できる何かにちがいありません。そして私と共に演奏してきた音楽家は ---さらに私の楽譜や文章を読んだ人までも---そこから何かを感じ、自分たちもそれを成し遂げようと努力します。たとえ私が「奏でよ」と言うだけだとしても、私がそれを言ったのであって、どこかの誰かがそういったわけではない。そこには決定的な違いが生じるのです。
 こうして、ある人間がこの神話とともに世界に入ってきて、人々がその神話を保持し、あるいはその精神にとりつかれているかぎり、彼は存在し続けるのです。一人の人間を通して顕現し、多くの人に影響を与えるのは、ある精神的な力です。そしてこれが世界の中に一つの世界を創造します。そこに疑問の余地はありません。演奏指示がどんなに「自由」であっても、人々はいつも言うことでしょう「やれやれ、どうやってもあなたの音楽のように響いてしまう」。それは「私の」音楽ではない、そのいかなる局面も私のものではないと、私が言ったところで、何も変わりません。なぜなら私が以前に作曲した全ての作品が、この一回の演奏解釈にも含まれているからです。つまり、それらの作品は特定の精神的過程、音楽的過程を包み込んでいるのです。

質問:やがては、あなたの音楽は「クラシック音楽」に分類されると思いますか?

シュトックハウゼン:本当は残念なことですが、でも人々が音楽をジャンル分けしようとするかぎり、そうなるでしょうね。ジャンルというのは、特に私たちの社会では、非常に特別な機能を持っているのです。なぜなら、このようなクラス分けは、自らをクラス分けする人々に由来しているからです。これは自分を「ポップ・カルチャー」のジャンルに分類する人々にもあてはまります。こうした人たちにとって、「クラス=階級」から外に出ることはとても難しい。彼らはそこに属していたいんですよ。だって、この社会システムにしがみついている限り、彼らは内心あらゆる他の階級に敵対しているんですから。「私が属しているのは私が所属したいところだ」というのはそもそも滑稽なことです。自由な人間は、いかなる階級にも属する必要はありません。例えば「クラシック」というレッテルを使って、誰かが私に「あなたは特定の階級に属している」と言う場合、実際にはその人は自分自身を分類しているのです。それには経済的・社会的な理由があります ---クラシックな人々はクラシックな社会にいたがり、クラシックなサラリーマンはクラシックな環境を望み、彼らはクラシック・カー、クラシック・スーツそして「クラッシー」な配偶者をほしがる...これらのことは互いに関連しています。
 私は音楽がレコードで流通すること---私自身がそれによってかなり匿名に、ただの「名前」になります---そしてそれがあらゆる趣味層とあらゆる階級に浸透することをうれしく思います。この点では私はかなり幸運な方です。というのも、「ポップ・ファン」、「クラシック音楽」愛好者、「現代音楽」を好む人々、そしてまた「中近東音楽」あるいは「民族音楽」を楽しむ人々が私のレコードを買ってくれるからです。いずれにせよ、レコード会社の人が私に言うには「驚きですよ ---何故こんなに色々な人がシュトックハウゼンを買うのか分からない・・・」。それはまるで、私の作った音楽が、ますますジャンル分けの境界線を横断し、もはや一つのジャンルに収まらないかのようです。でも、まぁどうなるでしょうね。たぶんあなたの仰るように、50年後にはやっぱり言われているかもしれませんね、「シュトックハウゼンはクラシックの作曲家だ」と。

質問:高度な音楽的訓練をうけているのだが、あなたがいつも作り出すサウンドについては何も知らない音楽家がいて、そしてあなたは彼にこの音楽を演奏させるつもりだとします。何が起こると思いますか?そういうことを試したことがありますか?

シュトックハウゼン:彼は以前に聴いたことのあるものを演奏するでしょうね。自分のすべての環境、訓練、そして専門的な技巧の枠を突き破るということは、ある音楽家の発展にとって本当にとても決定的な分岐点なんですから。とても意識的な音楽家が必要です。つまり、彼は世界の音楽を知っていなければならない。数多くの国々を旅して、あらゆる異文化の音楽をレコードで聴いており、すでに世界中の情報に通じた人間でなければならず、しかもそれは、これらの知識を全て捨て去るためなのです。

質問:『エス』のような作品を演奏しようと望む音楽家は、まず絶対にあなたの音楽をよく知っておかなければいけないのでしょうか?

シュトックハウゼン:いいえ、場合によっては必要ありません。「何も考えるな--- そうなったら奏ではじめよ」という指示があるので、私の本能は楽器の弦をつま弾いてみるでしょうし、何かを考えはじめたら止めよという指示によって、いつでも演奏を止めるでしょう。試してみなければ私にはわかりません。脳はあらゆる様式的なクリシェを回避するフィルターのように機能できます。つまり、この音楽家が思考する(テキストの指示は「考えるな、そして無思考の状態に達したら、奏ではじめよ」なのですから)ときには、彼はこの演奏の合間の思考過程を好きなだけ長びかせてもかまわないわけです。実際、この作品を演奏するとき私たちはそうしています。お互いに聴きあって、そして誰かが「あいつはなんて奇妙なものを弾いてるんだ」と考えたら、演奏を止めます。それからもう一度無思考の状態に戻るように努め、そして演奏を再開します。だから思考は除外されているわけではありません。演奏していないときにだけ、思考が起動するのです。思考はある種のフィルターとして作用します。作品上演中に思考すれば、自分が演奏したものや他人が演奏しているものにとても批評的になれますからね。そしてこの思考が、思考を停止させた後で、それにつづく無思考状態のあいだの演奏全体に影響するわけです。

質問:ここにいる私たち全員は思考と感情---私たちが条件付けられているもの、周りでつづいているすべてのこと ---を止め、内なる完全な平穏を成し遂げられる気がしています。そうなったら、私たちそれぞれの内にあるものは同じものになるでしょう。そして問題はただ、テレビ、新聞や広告によって私たちの内に刷り込まれているもの全てを拭い去ることだけでしょう。と、いうことは『エス』のような作品の論理を最後まで貫徹するならば、演奏者と演奏場所に関わらず、おそらく作品はいつも同じに響くはずではないでしょうか。でも、私たちが聴いたものは、シュトックハウゼンの音楽家によって演奏されたと、はっきり認識できるものだった。そこで質問したいのですが、あなたも同じご意見ではないでしょうか、未だあなた方はこの作品を、本来書かれているように完璧には演奏していないのではありませんか?

シュトックハウゼン:私たちにチャンスを与えて下さい。こういうものが音楽の歴史において表面化し、あるいは真面目に検討されるようになってから、まだ三年しか経っていませんし、この音楽に参加した音楽家で人生が劇的に変化した人はひとりもいません。残念なことです。彼らは多かれ少なかれ、以前と同じように生活しつづけています。それでも皆ある程度は変化しました。それは個性次第です。時間がかかります。この世代だけではたりない、来るべき世代によって進められて行くはずです。直観音楽というこの種子から芽生えるであろうものに、私は大きな信頼をよせています。

[翻訳:山下修司、監修:清水穣]