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シュピール(プレイ) <1952>

オーケストラのための

オーケストラのための『シュピール』は私の人生で最初の委嘱作品です。1951年の秋に私は『クロイツシュピール』<注1>を作曲しました。私はそれを音楽評論家で西ドイツ放送局での「夜の音楽プログラム」の制作者でもあったヘルベルト・アイマート博士に見せました。楽譜は彼の同僚ハインリッヒ・ストローベル博士---そのときのドナウエシンゲン音楽フェスティバルの責任者---が彼を訪ねて、初演する曲を絶え間なく探していて、彼に質問したときに彼の家に置いてありました。私はアイマート博士の家に来るようにとの電話を受けると、私にはドナウエシンゲン音楽フェスティバルのための作品を作曲する充分な自信があるかどうか?を自問しました。私には既に頭の中にオーケストラ作品のプランがあると告げ、作品の良い部分のピアノ編曲版を12月に私が指揮者のハンス・ロスバウトに送付することになりました。
 1951年の11月と12月に、興行旅行中の手品師アドリオンの伴奏をしなくてもよかった僅かな時間の間で、私はオーケストラ作品を作曲しましたが、それはオーケストラのための『フォルメル』という題名で出版されています。私はこの作品の一部分で二台のピアノのためのヴァージョンを作り、それをハンス・ロスバウトに送付しました。その結果として私が受け取った電報には私にオーケストラ作品が委嘱されたことと1500マルクを受け取ることになると書かれていました。それは具体的な仕事で私に約束されたうちで最大の金額でした。この約束により私は1952年1月8日にパリへ旅立ち、シテ・ユニヴァーシテールのメゾン・デュ・プロバンス・デュ・フランスでの実りある一年間を過ごしました。

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注1:クロス・プレイ/クロス・ゲーム:「シュピール」には『プレイ』と『ゲーム』の二重の意味があります。

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最初の三ヶ月間はとてもひどい英語を話すトルコ人---一方で私はフランス語が話せませんでした---と同じ部屋で暮らしました。彼はほとんどいつも彼自身の為に部屋を必要としていました…、それにより私はいかなる音量の雑音に囲まれたどんな片隅でも完全に集中して作曲することをそのときに学びました.。
 春には私自身の部屋を手に入れ、そしてその間にオーケストラのための『シュピール』は別の作品になっていました。私は後に『フォルメル』と名付ける『オーケストラのための習作』を留保していましたが、なぜならそれはあまりに旋律的で主題的だと思ったからでした。その代わりとして、私は『シュピール』をよりいっそう『クロイツシュピール』のスタイルで作曲しました。『シュピール』は7打楽器奏者、3オーボエ、3A-クラリネット、3ファゴット、コントラファゴット、3ホルン、グロッケンシュピール、ヴィブラフォン、チェレスタ(及び第二楽章での電子オルガン)、ピアノ、6ヴァイオリン、3チェロ、そして3コントラバスのための作品です。
 この作品は二楽章からなっています。それ以降、本来が一連のピアノ作品である『ピアノ曲集』を除いて、私は「楽章」に分かれた作品を一度も作曲していません。

世界初演は1952年にドナウエシンゲン音楽フェスティバルにて行われました。ハンス・ロスバウトの指揮するオーケストラで私自身がピアノのパートを演奏しました。初演の前の最終リハーサルの間に、もし私がこの作品をかなり短くしたら彼はそれを喜んで受け入れるだろうというロスバウトのコメントを私は感じとりました。この理由により『私自身が率先して』私は第二楽章を中央部---そこから「鏡像」が始まる---で終わらせたいということを彼に言いました。彼は目にみえてほっとしていました。その結果、ドナウエシンゲンでは第一楽章と第二楽章の半分が上演されました。

これまでにオーケストラの書法では一度も使用されることのなかった楽器を使用した、打楽器からのあらゆる種類の音色が要求されています。例えば、大きな飲用のグラスを私は使用しましたが、それは金属棒で叩かれることで重要な認識信号として多くの休止符を通じて鳴り響きます。そのときのフェルスト・フォン・フェルステンブルクの貴重なビールとワイン・ゴブレットの博物館長だったアルトグラフ・サラムが、特別な栄誉として、収蔵品のなかからゴブレットを選ぶことを私に許可してくれましたが、それは非常に美しい響きでした。
 初演では、作品が終了する直前に長い全般的な休止に続いて大きな高まりをおき、そして全般的な休止の始めにこのゴブレットが叩かれることで休止の全体にわたって明るく、光り輝く音として鳴り響くことを可能にすることを私達は決めていました。ロスバウトは独特の大きな強拍の一つを壊れやすい音響素材に与え、そして没頭している熱心さで打楽器奏者が金属棒であまりに強く叩いたので、ゴブレットは---椅子や譜面台や床の上に---粉々に破裂してしまったので全般的な休止の全体はチリチリ鳴る音、バラバラになる音で満たされました。それから大きく鳴り響く最後の音になって作品は終わりました。聴衆は私の初期の作品がいつも呼び起こしていた伝説的なスキャンダルの一つに反応しました

私自身はもうたくさんでしたしさらにもう一度『シュピール』が演奏されることを望んではいませんでした。
 1973年に、私は楽譜全体を再び模写して打楽器の記譜を幾分単純化しました。作品の構造は変化されることなく残され、そして第二楽章を短くする理由はもはや見出せませんでした。

1973年7月にラジオ上演のためにバーデン・バーデンにて南西ドイツ放送局シンフォニー・オーケストラで私自身が『シュピール』を指揮しました。その他の作品と同様にこの楽譜を燃やしていなかったことで私はとても幸福でした。
 1975年9月14日のベルリン交響楽団による公演がそれゆえにこの作品全体での世界初演でした。
 『シュピール』は私の妻ドリスに献呈されています。

『シュピール』の楽譜は1975年にウイーンのユニヴァーサル・エディション社から出版されました。

録音について

1973年7月4日と5日にバーデン・バーデンのハンス・ロスバウト・スタジオにて南西ドイツ放送局シンフォニー・オーケストラによって録音が行われました。
 録音監督:ウォルフガング・ウトルチュク;
 録音技師:フランク・ヴィルト。

 指揮:カールハインツ・シュトックハウゼン

[翻訳:山下修司]