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知る者は言わず

世にあって、世捨て人のように 生きる
そうありたいと、最近 思うようになった。

ここ暫く、森本哲郎さんの本を読んでいる。

沈黙 について、考えさせられた。

少し前から、大きい音や注意を引くような音への嫌悪感が凄い…
もしかすると、生来 その気があったのかもしれないが
社会に出て 人やモノに囲まれるようになって、強く意識させられる
ようになった、のかも。つまる所、生理的にムリなのだ

スイスの哲学者 マックス・ピカートは
「もし言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深みを失ってしまうであろう」
と言ってい (ると聴いてい) ます。

騒音を背景にした言葉の、なんと空疎なことか…
しかしながら、私たちは平気でそれをやってしまう。
ラジオ的人間、テレビ的人間、
いつも 「音楽」で両方の耳を塞いでしまう。

だから、足し算的なモノの考え方は 苦手だ。
騒音を、より大きな より近くの音で上塗りして誤魔化す。
でも、逃げ場がなければ その一択しかないのも事実…

逃げ場がある時には、そこから ”立ち去る” に限る。
引き算的に

ーーー

人通りの多い 歩行者天国
そこで、拡声器を片手に 思想を、衝撃的な出来事を、騒音を垂れ流す人びと
一体 誰の耳に届いているのか、と悲しくなる。

半分、降りながら
水のように暮らしたい。

___
音楽 その一瞬に加えて…

言葉も それは同じだ。
その一節を生み出すために、費やした時間。
それを他に充てたときの可能性、羨望、孤独。

きっと、重みが違う。
そして、音楽と同様 自分も… あちら側へ

そうやって、詩への小道 を歩いてゆくのだ。
気の澄むまで

ー筆おきー

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