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風景をつくる

adieu「ひかりのはなし」の歌詞より、以下 引用

月の匂いが肌に落ち
触れたい頬 照らし出す
此処にあなたがいる今夜
神様も天国もいらないわ

途切れぬ思いの理由は
私だって解らない
失う時が来るとして
わたし この運命だけでいい

ーーー
今日で、この備忘録をつけ始めて ちょうど2年目。
これで、書いた数は 77になる。三日坊主な自分のわりに、続いてる。
ーーー

長田弘さんの詩やエッセイが好きなのですが、
その中でも 著書『なつかしい時間』の「大切な風景」という文章は
今の自分にすごく響きます。
もう、引用のし過ぎなので 今回は控えます…

今 読んでいる、『ネガティブ・ケイパビリティで生きる』も いい。
この中に "受肉した言葉" という言い回しが出てきます。
すごく、いい言葉だなぁと

私の場合、大切な風景は
よく行くお店の風景だったり、そこから見える風景だったりします。
そんな風景を、歳月をかけて つくってきた。

受肉した風景 とでも、呼べば良いだろうか?
いささか 生々しい響きもあるけれど…

きっと、昔は こんな言葉なんてなくてもよかった
というより、その言葉がなくて済んだのだと思う。
それぞれに息づいた生活があって、守るべきモノが守られていた
(気がするのは、ただの幻想かもしれない。)

今の日本は一見 綺麗で平和かもしれないけれど、
その実 余裕がない… と感じてしまうのは、私がそうだから
だけだろうか?

「関心」にも、負の側面がある ということを今日 知った。
全てを自分事として考えるのは、思いの外 しんどい。

(SNS含め)公的な場で、人間味のある発言や表現をするには
自分のナラティブをはっきりさせておく必要がある。
でないと、分かり易い / 綺麗な / 扇情的な / 注目を集め易い / 脅しめいた
ナラティブに、思想に包摂され、括られ、束ねられてしまう。

___
きっと、「便利」にも「ネット」にも「スマホ」にも 負の側面がある。

私たちの経験や記憶、文化を形づくるのは
景勝地や絶景でも、ましてや スマホの中でもなく
生活や日常の中にある 風景だと思う。
それらを切り離して考えることはできない。

いま一度、それらの風景をじっくり観察したい。
何事も その人の生活を差し置いて
「常識だ、マナーだ、社会人なら必携のスキルだ。
 だから、知らないなんて愚かだ。損をしている。」
というナラティブは、絶対にあり得ない と私は思う。

万事が全部 理解できるわけでも、
自分事として関心をもち 意見を述べられるようにならないといけない
というわけではない。

むしろそれは、生活への思い や 自然への畏れの念 を蔑ろにした
横柄な態度だと思えてならない。

ー筆おきー


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