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あたしが米屋だった頃

 20代の約十年間、あたしは米屋だった。取ったばかりの運転免許で軽トラックを運転し、米を配達した。そういえば、成人式にも「米穀店」名入りの軽トラックに初心者マークをくっつけて自ら運転していき、参列したっけ。晴れ着は、奮発した紺色ビロードのスーツで、振袖を着た友人と談笑していたら、その友人は友人らしき人からあたしのことを「お姉さん? 」と訊かれていた。太っていたし、地味なスーツに慣れない白塗りメイク。ずいぶんと老けて見えているらしい、とその時気づいた。同年代の誰かのそばにはいたくないなと思った。それからの十年間だ。

 米屋の朝は、そんなに早くない。ちょうど学校へ行くのと同じくらいだ。8時から8時半までの間に出勤するという感じ。そう、米屋は毎朝出勤するのだ。自宅店舗は母親が仕切っており、その母は毎朝病的に早起きした。商店が並ぶ通りなので、誰よりも、どの店よりも早く、という意地というか見栄というか、まあ、見栄ですか。矜持ともいえそうだ。「家(というより世間に対する自分のプライド)のためなら何もかもを犠牲にしていとわない」という、戦国時代の人のような母だった。

 戦国時代な母の話はさておいて、若干二十歳で米屋になったあたしの話に戻る。

 月曜日から土曜日まで、毎朝8時半頃までに米穀組合へ出勤する。前日の売上金を納め、当日持ち帰りたい分の米の注文伝票を書く。組合の建物の二階は、米俵が積み上げられ精米機がうなる精米工場だ。60キロ入り米俵もしくは30キロ入りの紙袋から、店頭販売用の10キロ入りビニール袋へと詰め直された米は、一畳ほどに抜かれた二階の床に設置した滑り台仕様の台の上を滑らされ、下で待ち構える軽トラックの荷台へ山盛り積み上げられる。そんなときあたしは軽トラックの後部に明記された『最大積載量350㎏』という記載をガン見せざるをえなかった。「そんなの守れるわけねーよ」の気持ちでいっぱいだった。

 持ち帰りたい米=店に並べて売るための米だ。基本の米が3,000円台から6,000円台までの間に6種類あったし、胚芽米だのなんだのがあり、一種ごとに10袋ずつ持ち帰るのが基本だったから、最低60袋、つまり最低600㎏。そちら1トン超えてますよね、のときもざらにあった。もちろんどの車も重みに耐えかね車高はぐっと低くなった。あ、昭和の話ですから。組合もとっくに倒産してますから、どうか許してごめんなさい。

 しかも、この積載量を無視し極限に近く車高を落とした軽トラたちは、だからといって肩身を狭くしてひっそりと自分の店に戻ったりしない。荷台いっぱいにこれでもかと米を積み上げたまま、喫茶店へと繰り出すのである。米屋にとって喫茶店は大事な顧客。米を買ってくれている店すべてを網羅すべく、毎朝別の店でコーヒーを飲む。なんなら2件3件はしごもする。それが慣習であり、大切な仕事でもあり、ノルマなのだ。

 あたしも毎朝喫茶店でコーヒーを飲み、モーニングサービスのトーストを食し、同じくたいていの店でトーストと共に提供されるゆで卵は食べきれないので持ち帰り、冷蔵庫にしまっていた。前述のとおり、喫茶店に行くのは一日一回ではなく、ゆで卵も一日一個ではすまない。なんなら母も行くから、さらに倍、である。おかげで家の冷蔵庫にはいつもゆで卵があり、おかげさまであたしは結婚するまでゆで卵を作ったことがなかった。

 あたしが運転する軽トラックに米を積んでくれていたのは、同僚的存在のオジサマ方だった。自分でやったことあったっけ? くらいの人任せぶりだった。急逝した父親に代わって、若干ハタチで突然仲間になったあたしを、オジサマ方は全力でフォローしてくれた。喫茶店に行くのもそのオジサマ方と一緒だった。今思えば小一時間も何をしゃべっていたものか。しゃべってもなかったのか。ただ不思議と間は保っていた気がする。……ああ、そうだ、田舎の喫茶店だから、隅から隅まで常連さんだ。米屋歴の長いオジサマ方にとっては、隅から隅まで知った人ばかり。店にいる人全員が全員と会話している状況だったから、ただ座ってコーヒーを飲んで週刊誌を読んで、でもって全然平気だったんだ。

 そうして小一時間後、自分の家=米屋に戻ると、積んできた米を母と一緒におろし、店頭に並べてから、あらためて配達する分の米を積み、おつり分のお金を抱えて、再び出発する。お米というのは、日本人は毎日食べる。昭和だった当時は特に毎日毎食食べていたといえる。するとおのずと消費量が決まってくるので、いつ頃どの家から注文が入るかの見当が比較的容易につく。そして、配達先の家の事情や状況もたいてい把握する。せざるをえない。米を切らさせるわけにはいかないし、必ず集金させてもらわなければならない。米は台所の主で、家庭のお財布そのものなのだ。

――なんてことを、今これを書きながら初めて考えてみているところだ。

 そもそも、生まれたときから米屋ではあった。自宅=米屋なのだから、仕方がなかった。仕方がないという感覚すらなかったが。ただ「ともだちの家に遊びに行く」という体験を重ねるにつれ、「扉ひとつに鍵をかけて開け閉めする玄関」であるとか、「壁で仕切られた部屋」だとか、「主に調理をする人しかいない台所」だとかの、それぞれがきちんと単独で機能している住まいこそが「家」なのではないかという思いにかられるようにはなった。

「自宅=米屋」な暮らしは、他人だらけのキャンプ場で寝起きさせられているという緊張感があった。シャッターをおろさない限り、店舗でもある家の前面はすべてガラス戸で、いつでも誰でも出入りできた。店から台所まですべて続きで土間だったから、店から続けて台所のあるいわゆるダイニングとしていたところまでみんな入ってきた。プライベート空間は無きに等しかった。暑かったし、寒すぎた。「いっつも外」という感覚で暮らしていた。米屋をしながら、あたしは「カギのかかる家に住みたい」と願うと同時に諦める切なさを感じ続けた。

 父が突然入院したとき、あたしは短大生だった。父とはほとんど対話しない関係になっていたし、店のことも家のことも何もしていなかったので、他人事のような気もしたのだが、母は車の免許を持っておらず、つまり「米の配達をする人がいない」という危機的状況になったことだけはわかった。ちょうど夏休み直前のことで、あたしはすぐに教習所通いを始めた。

 店の危機的状況がどんなものだったのか。覚えているのは、母方の祖母が遠路はるばる手伝いにきてくれて、しばらく一緒に過ごす中、キャベツの千切りにツナ缶を混ぜたサラダを作ってくれたのが美味しかったことだ。「キャベツの千切りサラダ」と命名し、自分でも作ってそればかり食べていた気がする。あの頃の食事の思い出はこれしかない。米の配達は、母が自転車で行けるところは行き、無理なところは米屋のオジサマ方が助けてくれていたようだ。

 あたしといえば、それまで続けていた書店でのアルバイトと教習所通いで時間を費やしていた。あまり何も考えなかった。ただそのころ「この足を一歩前に出せば、一歩進む」と思った記憶がある。例年通りの暑い夏だった。炎天下、自宅から教習所、教習所からバイト先へと自転車を走らせる日々だった。一度だけバイト先で突然吐き気に襲われ立っていられなくなったことがある。ああ、あれはたぶん熱中症だったかな。あたしがんばってたな。

――なんてことにも、今これを書きながら初めて思い至った。

 近所の医院から遠方の大学病院に移った父の様子もわからなかった。わからないうちに亡くなってしまった。入院して一か月半くらいたった頃。あたしが二十歳になる四日前のことだった。喪服の支度もできないままに慌ただしく迎えたお葬式で撮られた、母のシンプルな黒いワンピースを借りて弔問客に頭を下げている自分の写真をあとからみて、ずいぶんやせたなとちょっと嬉しかったのに、それから半年後の成人式では、二十歳にみてもらえないほどかわいげなく太って、そして老けていたんだなあ。

――なんてことを、成人式を迎え振袖を着た娘の写真を見ながら、今しみじみ考えてみている。

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