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死がふたりを

プロローグ

「それでは、誓いの言葉をのべてください」

 私の前にいる神父さんが私たちに向かってそう言った。

――とうとうこの時が来た。
 私はこの瞬間を待ちわびていた。
 絶対に教会で式を挙げたいと、神前結婚がいいなといっていた彼を説き伏せてそこだけわがままを貫き続けたのは、ウエディンドレスを着たかったからではない。いや、着たくなかったわけじゃなくって着たかったのも事実だけど、私はこの誓いの言葉を言いたいがために教会で式を挙げたかったのだ。

 私は彼のほうに体を向ける。

 最初に彼が私に向かって誓いの言葉をのべた。
 私は自分の誓いの言葉を間違えないようにと頭の中でこれから言うつもりの言葉を復唱していて、彼の言葉は聞いていなかった。
 気がついたら彼の声が聞こえなくなっていた。次は私の番だ。

 私は私の誓いの言葉をのべ始める。

「新婦となる私は、新郎となるあなたを夫とし……」とここでいったん息継ぎをする。

「良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも……」
いよいよ次だ。

「たとえあなたが先に亡くなったとしても、私は私自身が亡くなるその日まで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います」
言い切った。

 私の目の前にいる彼は少し驚いた顔をしている。よかった、右から左に聞き流していたわけじゃないんだ。
 そのあとすぐにニッコリとほほ笑んでくれた。

「俺が先に死ぬなんて、そんな心配なんかしなくっても大丈夫だよ。千佳子より先には死なないから」
 式が終わり、このあと披露宴が始まるという少し前の時間、二人っきりになったときに良一さんは笑いながらそう言った。

 それは彼が私についた、いくつかの嘘の中で一番大きな嘘だった。

 私の両親は、私が大学生の時に交通事故で亡くなってしまった。ほぼ即死だったということで、苦しまずにすんだことだけが唯一の救いだった。
 そして最期のその瞬間まで二人一緒だったということは少しうらやましかった。二人からしてみれば、夫婦一緒じゃないほうが良かったのかもしれないが、どう思っているのかについては私が死んであの世に行ったときに聞いてみようと思う。
 事故でおりた保険金と両親が残してくれていたお金を合わせれば、あとは少しばかりアルバイトをしさえすれば大学を卒業するまでのお金の心配は必要なかった。叔父や伯母は心配してくれたが、おかげで親戚を頼らずとも生きていくことができた。
 良一さんと出会ったのはそのアルバイト先でのことだった。
 彼はアルバイト先の会社で技術者として働いていて、自分の仕事が忙しいにもかかわらず私たちアルバイトの面倒を見てくれた。
 そこから先はそれほど波乱万丈、あるいは映画のような恋になったわけでもなく、良一さんも早くしてご両親を亡くされていてお互い二人っきり、結婚までほぼ一直線のレールの上に乗ってしまった感じで、人生というレールを歩いていたらいつのまにかごく自然にここまできてしまった。

 冷蔵庫からネギの入ったタッパーを取り出す。スーパーで買ってきたネギはすぐに刻んでタッパーに入れて常備してある。チューブのおろし生姜を絞って市販の麺つゆに入れ、こんどは野菜室からキュウリを一本取り出して水で洗い、半分ぐらいまるかじりして食べてしまい、残りをまな板の上で細切りにして麺つゆにドボンと入れる。
 そんなことをしているとちょうどいい具合にそうめんが茹で上がってくるので鍋からザルにあげて蛇口のレバーを押し上げて水で冷やしてぬめりをとる。軽く水を切って皿に入れ、箸を咥えて片手にそうめん、片手に麺つゆを持ちながらテーブルにつく。
 お昼なんてこんなものよといいたいところだけれども冷蔵庫には私の好きなデザートが入っている。この間、従姉妹の彩から教えてもらった人気のデザートだ。昨日の夜、良一さんが運良く一つだけ買えたといって買ってきてくれた。
 食べながらテーブルに置きっ放しだった端末を手に取り、ニュースを見る。一時間ぐらい前に地震があったので様子を調べてみた。この部屋はそれほど大きく揺れなかったが直前に地震警報が鳴ったので地震だということがわかった。警報が鳴らなかったら、ときどき起こる目眩と勘違いしていたかもしれない。結婚式から三ヶ月ほど過ぎて生活も安定し始めたと思っているが、まだいろいろと結婚生活に慣れていないのかもと思う。
 ニュースを見るかぎりではそれほど大きな地震ではなかったようだ。津波の心配もない。数日経てば地震があったことも忘れてしまうだろう。そんな小さな地震だった。
 端末を置いて、そうめんを食べることに集中していると呼び出し音がなった。画面を見ると知らない番号が表示されている。
 人の食事中に、とそのまま無視をする。どうせ何かの勧誘にきまっている。
 呼び出し音は長いこと鳴り響いていたがが、とうとう相手もあきらめたようで静かになる。静かになった途端、この世からすべての音が消えてしまったかのような錯覚を覚える。
 こんなに静かだったのか。と妙に感心してしまう。ちょっと得した気分になり、知らない誰かさんにありがとうと感謝したくなってくる。
 が、またすぐに呼び出し音がなった。さっきと同じだったかわからないが知らない番号だ。どうやら勧誘じゃないようだ。しぶしぶ出ることにする。
「もしもし、山岸です」
 私は知らない番号からの電話の場合、名前ではなく名字を名乗る。
「山岸くんの奥さんでしょうか」
「はい」どこかで聞いたことのあるような声の気がした。
「わたくし、山岸くんの同僚の新藤と申します」
「ああ、進藤さん、はいお久しぶりです」
 新藤さんは良一さんと同じ会社の同僚の人で、良一さんとは仲がよく、時々うちにも遊びにきてくれたことがある。
「実は、山岸くんが事故に合われて、病院で手術を行っている最中なんです。今からいう病院まで来てもらえますでしょうか」
 新藤さんが教えてくれた病院は地元では有名な大学病院で評判は良い。確か良一さんが勤めている会社もこの大学病院と関係があったはずだった。昔、そんなことを良一さんが言っていた記憶がある。電話を切ったあと、すぐさまタクシーを呼び、出かける支度をする。しばらくしてタクシーがやって来て、運転手さんに行き先の病院の名前を告げたところで不安が襲ってきた。

 タクシーで病院の入り口前に降りると新藤さんが待っていた。
 何度か良一さんが家に連れてきたことがあるので顔は覚えているし、私がアルバイトをしていたときも新藤さんのお世話になったことがある。
「ああ、千佳子さんお久しぶりです。さっきお話したように良一が事故にあいまして、今、手術を行っているところなんです」
「良一さんは、大丈夫なんでしょうか」
「すみません、僕も良一の状態がどうなのか、詳しいことまでは知らないのです」
「誰か知っている人はいないんでしょうか」
「午前中の地震で、建設中の装置が崩れてその下敷きになってしまったとしか」
「あの地震ですか、そんなに大きくはないと思っていたんですが」
「ええ、それほど大きな地震ではなかったのですが、崩れたのが組み立てている最中の物でしたので、ヘルメットはかぶっていましたが、それでも」
「では主人の他にも怪我をされた方がたくさんいらっしゃるのですか」
「いえ、怪我をしたのは運悪く良一だけでした。ただ、事故の規模が小さかったのでマスコミには伝わっていません。その点では余計な気苦労はしなくても済みます」
 新藤さんは病院の中のほうに手を差し伸べて「ここではなんですので、待合室のほうに行きましょうか」と言いながら先に歩みを進め、病院の奥のほうへと歩き始めた。私はそのあとを追う。
 大丈夫だ、大丈夫だと自分に言い聞かせる。大丈夫じゃなかったら新藤さんももっと深刻な顔をしていたはずだ。
「ここです」と歩みを止めた新藤さんが廊下の右側の入り口を指し示した。
 どこをどう歩いたのか記憶にない。帰るときはどっちへ行ったらいいのだろうと思った。
 待合室の中には私たち二人しかいなかった。背もたれのついたソファーとテーブルとテレビ。空気清浄機の動いている音がかすかに聞こえるだけだ。さっきまでいた自分の世界から隔離されてしまった感じがした。一つしかない窓はカーテンが閉められていて外がどうなっているのかわからない。でもここに来た人が外のことを気になんてしないのかもしれない。
「僕はちょっと手続きをしに受付に行ってきますので、ここで座って待っていてください」
新藤さんは部屋の外へ出ていった。
 一人になったとたんに心細くなる。座っているよりも立っていたほうが気が晴れそうだった。少しでも明るいほうが落ち着くかもしれない。そう思い窓際まで歩き、カーテンを少し開けた。この部屋は二階、いや三階のようだった。下をみると庭のような場所が見える。
 車椅子に乗った人とそれを押している人の姿が見える。あれは未来の私と良一さんかしら。車椅子に乗った良一さんの後ろ姿。そして、その車椅子を押している私。そんな光景を思い浮かべる。

 手術中の赤いライトが消えた。
 ドラマや映画で見た光景とそっくりだ。あれってほんとなんだと、思った。
 結局、待合室では我慢ができなくって手術室の前の椅子に座って待ち続けていた。
 新藤さんはすまなそうな表情をしながら、会社のほうに用事があるのでいったん戻りますといって少し前に出ていった。しかし用事がすんだらまた戻ってくるらしい。
 しばらくしてドアが開き、看護師さんが出てきた。
「手術は終わりました。ご主人さまは集中治療室に移動されています」
「で、どうだったのでしょうか」
「後ほど別の部屋で医師から説明がありますので、ご案内いたします。大丈夫です」
 と少し笑みを浮かべてくれた。心細かった気持ちが少しだけ軽くなる。

「おかけになっておまちください」
 と看護師さんは言って、部屋から出ていった。
 私は椅子に座る。
 机の上に置かれた脳の模型。土台の部分に聞いたことのある薬品会社の社名が入っている。どこかの風景の写真が映し出されたままのパソコンのモニター。マウスを動かしてその写真を消したくなる衝動にかられる。
 視線を感じたような気配がして、部屋の奥のほうに目を向けた。
 部屋の奥は、他の部屋と部屋を結ぶ通路になっている。その通路の壁から一匹の犬がこちらを見ていた。
 やけにリアルなぬいぐるみね。それにしてもあんなところに置いておくなんて趣味が悪い先生のようね。
 と、突然そのぬいぐるみがこちらに向かって歩いてきた。
――本物なの。
 少し近づいてきたけれども途中で止まり、おすわりをしてこちらを見ている。
 ひょっとしたらこれが時々ニュースで見かけるセラピー犬というものなのかしら。
 じっと止まったままこちらを見つめている。
 何かしてほしいのだろうか。ああ、そうか、私の許可を求めているのかしら。
「お利口さんね、いらっしゃい」驚かせないようにゆっくりと手を差し伸べた。
 しゃがんでいたお尻をあげてこちらに歩み始めたのだが、その歩きかたはどこか変だった。
 足が悪いのかしら、と思ったのだがあらためて歩いているその姿をみるとどこもおかしくはない。気のせいだったのだろう。
 手を伸ばさなくても触れられるところまで近づいてきた。
「かわいいわね。お名前はなんていうの」
 首輪のどこかに名前が書かれているかもしれないとおもい、首輪に手をやり、調べてみる。

コタロウ サクラ

 と文字が書かれているのが見つかった。
 あら、どちらかしら。
 こちらに体をむけたまま、おすわりしているので視線をさげて確かめてみた。
 男の子だ。
 じゃあコタロウくんね。それとも首輪の名前は違うのかしら。
「おまたせしました」
 と背後から声が聞こえた。振り返ると白衣を着た中年の男の人が立っていた。
「おや、こんなところにいたのか。相手をしていてくれたんだね、ありがとう。しばらくお姉さんのそばにいてくれるかな」
 と近寄りながら犬の頭をなでる。
「おりこうなワンちゃんですね」
「ええ、それもそうなんですが、この仔が来てからうちの病棟も雰囲気が和やかになりました」
「セラピー犬、ですか」
「そうですね、いまはもう、そんな感じですかね」
 にこやかに笑顔を見せていたが少し真顔になる。
「すみません、余計なお話ばかりしてしまいまして。久田と申します。今回、ご主人さんの手術を担当いたしました」
 私も立ち上がってお辞儀をする。
「主人は、どうなんでしょうか」
「手術はうまくいきました。ご主人はいま集中治療室に入られています」
「生きているんですね」
「はい、今のところ問題になるような兆候も見られませんし、少し時間はかかるかもしれないけれども順調に回復していくでしょう」
「ありがとうございます」
「ご主人の今の状態についてご説明いたします。大きな物の下敷きになってしまったことで、残念ながら右腕は手首付近から先を切除しなければいけませんでした。しかし、今の義手はなかなか良くできていますから、義手を使えば日常生活に不便を感じるようなことはないと思います」
先生の言葉はちょっとショックだった。
「そうですか。主人は左利きでしたので、左手が無事ならば多分そんなに不便になるようなこともないと思います」
 私がそう言うと先生の表情が明るくなった。
「そうですか、ご主人は左利きでしたか。それは運がよかった。ひょっとしたら言語野も大丈夫かもしれません。ああ、すみません、ご主人が左利きで良かったというのは実は左脳の損傷がひどくて、摘出しなければいけなかったからです」
 摘出……。一瞬理解できなくなってしまった。
「摘出って脳を取ってしまったってことなんですか」
「左脳のほうです。右脳や生命維持に必要な部分は残っています」
「半分も取ってしまって大丈夫なんですか」
「ええ、大丈夫です。奥さんが心配されているようなことは、まず問題ありません。脳の半分を失ってしまっても普通の生活を送られている方はたくさんいます」
「はい」
「心配なのは脊髄の損傷なのですが、これに関してはいまの時点ではまだなんともいえず、ひとまずは様子を見るしかないです。先ほども申し上げましたように、集中治療室にいますが、経過は順調です、リハビリは必要ですが安心してください。私のほうからは以上です。なにかご質問はありますでしょうか」
「主人は助かるんですね」
「そうですね、必ずしも楽観できるというわけではありませんが、今のところご主人の様態も安定しております。我々も全力を尽くしますのでご心配ならずにいてください」

 集中治療室といっても家族であれば面会時間内であれば面会はできるらしい。今日はもう面会時間を過ぎてしまったので良一さんの姿を見ることはできない。今日のところはもうなにもできることはなかった。
 明日、また来よう。
 出口はどこなんだろうとうろうろと歩き回っているうちになんとかロビーに出られた。タクシーを呼ばないといけないなと考えたところで千佳子さんと名前を呼ばれた。
 声のするほうを見ると、新藤さんの姿が目に入った。
「手術のほうは無事終わったようでなによりです。僕も少し安心しました、まず、会社からの伝言となりますが、今回の事故は労災が適用されます。治療の費用に関してはご安心ください。入院中の給与も保証されます」
 新藤さんはそういいながら持っていた封筒を差し出した。
「入院の手続きなどは僕のほうでやっておきますので大丈夫です。ただ、いくつかご署名していただく箇所がありますので、申し訳ありませんがそちらのほうはお願いします。署名が必要な部分にはしるしをつけておいたのでわかるかと思います」
 といいながら手にした封筒の中から書類を出して、しるしのついている部分をみせてくれた。
 しるしを見ながら、これならば大丈夫だと思う。「大丈夫です。わかると思います」
「そうですか。必要なものはすべてこの中に入っています」
 受け取った封筒は思ったよりも少し重かった。
「あ、もちろんすぐに必要というわけではありません、落ち着かれてからで大丈夫です。あと、それ以外にわからない部分があったら遠慮なく僕のほうに聞いてください。アドレスはこのメモに書いてあります。それとも今、アドレス交換しておきますか」
「はい」
 バッグから端末を取り出してアドレス交換の操作をした。
 画面上に新藤さんのアドレスが表示される。登録ボタンを押す。

 あの日から一ヶ月ほど経った。

――お話したいことがあります。ご都合のよろしい日時と場所を教えていただけますでしょうか。可能ならば病院でお会いするほうが都合良いです。

 新藤さんからそんな連絡があった。
 新藤さんには申し訳ないけれども、彼からの連絡はいつも悪い知らせの感じがする。
 胸騒ぎと不安がこれ以上ひどくならないようにと、今日の午後の時間を伝える。
 すぐに返事は帰ってきてそして私は出かける準備を始めた。

「良一が極秘のプロジェクトに関わっていたということは以前にお話したかと思います。そしてそのプロジェクトの中核を担っていたということも」
「ええ、なので会社のほうとしても主人の回復を必要としていたと」
「はい、そうです」
「それが、なにか」
「言いにくい話になりますが、良一はまだ意識が、というよりも意識はあるけれども意思の疎通ができない状態です」
「ええ、そうです」
「脳を移植するという方向もすすめてはいたのですが、なにぶん、脳死状態でなおかつ、体のすべてを提供してくれるという人は少ないのです」
「はい、そうですよね」
「単刀直入に言わせてもらいますと、プロジェクトが中断したままになってしまい、それによって会社の資金調達が止まってしまったのです。もちろん今もなんとかして資金調達をしてはいるのですが、肝心のプロジェクトの見通しがまったく立たなくなってしまった現在ではそれも難しく、遅かれ早かれ倒産をしてしまうでしょう」
「倒産!」私は驚いてしまった「確か、この病院も会社と関係があるのではなかったでしょうか」
「病院のほうは大丈夫です。会社はあくまでこの病院が行っているいくつかの研究に出資して共同研究などをしていただけです。会社がどうなろうとも病院のほうはこのまま潰れることはありません。ただし、出資がなくなってしまうので止まってしまう研究も出てくるでしょう」新藤さんは慌ててそう言う。
「会社はひょっとしたら他の会社に買収されてしまうという可能性もあるのですが、プロジェクトが失敗したという情報が流れてしまっているようで、会社を買収するよりは社員のほうをヘッドハンティングしたほうがいいという判断をしているところが多く、既に何人かは辞めてしまっています」
「では、なにが問題になるのですか」
「良一の治療に関してです。もちろん最低限の治療は保証されます。しかし脳移植となると、提供者が現れるまでは待ち状態となりますので手術費用を発生させることができないのです。つまり脳移植ができる状況になったときに会社が存続していないとその費用を出すことができないのです。今のところ脳移植は保険が効きません。なので移植手術をするとなると莫大なお金がかかることとなります」
「いつまでだったら大丈夫なんですか」
「すみません、私も正確なところはわからないのです。今も流動的な状態ですので、ただ、今のままつまり資金調達のめどが立たなかった場合は、おそらく数ヶ月以内ではないかと」
「数ヶ月以内に提供してくれる人を探さなければいけないということですか」
「そうなんですがそれは、おそらく難しいかと思います」
「じゃあ、どうしたら」
「方法は二つあります、一つは今の治療を継続していくという道です。このままであっても意思の疎通ができないと決まってしまったわけではありません。今後、医学が発達して今以上に回復する可能性もあります」
「でも、それはあくまで……」
「はい、楽観的な希望でしかありません。しかし、このままにしておいても良一が死んでしまうというわけではありません」
――いやだ、そんなのいやだ。
「もう一つは、千佳子さんの中に移植するという方法です」
「私の、ですか。でもそうしたら私は……」
「これに関して僕よりも久田先生からお話してもらったほうがいいかもしれません、久田先生にはすでに話してあるというかこれは久田先生からの提案でもあるので」
「はい」
「久田先生にはもう待っていただいていますので、先生の部屋にいきましょう」

 先生の部屋に入ると、あのときの犬がいた。良一さんのお見舞いに来た時も何度か見かけたけれどもその時はほかの患者さんとじゃれ合ったりしていたので遠くから眺めていただけだった。
 そういえばこの犬、なんて名前なのだろう。
「先生、話を録音してもいいですか」
 新藤さんがポケットから棒状のなにかを取り出しながら言った。
「はい、いいですよ。あまり難しい話にならないようにしますが、録音してもらったほうが後で助かるでしょう」
「じゃあ、ちょっとそこの机の端に置かせてもらいます。えー、今日は何日だったかな」
「八日ですよ」と私は答える。
「ああ、そうですか、じゃあ」と進藤さんは今日の日付を口にして、そのあと「久田先生の会話、録音開始」と言った。
「脳に重大な損傷を受けた患者の場合、肉体的な反応をしなくなってしまうことが多々あります。この場合、意識があるのか、周りの事柄を認識できているのかという判断をするのが困難なのですが、ご主人の場合、意識というものはおそらくあると思われます。少なくとも外部的な刺激に対して何らかの反応をすることがあるからです」と脳波の測定結果の用紙を広げながら「こことこことかです」と大きく揺れ動いている部分を指差した。
「ご主人の場合、脳以外に肉体的な損傷が激しく、特に脊髄をひどく損傷しております。それだけであれば手足、あるいはそれ以外の体を動かすことができないというだけで、頭部、つまり目や口は動かすことが可能です。しかし、それさえもできないということを考えますと、そういった部分を司っている運動野にも損傷があると考えられます」
あの日から一ヶ月、ひょっとしたらと思うこともなかったわけではないが、改めて説明を受けると悲しくなってくる。
「時間をかければこの運動野の損傷を補うことも可能ですが、残念ながら時間はあまりありません。厳しいことを言わせていただきますと運動野の停止は脳機能の低下につながります」
私は先生の言葉にうなずくしかできない。
「今のままですと、治療の継続ではなく、延命の継続という形に入ってしまいます。もちろん延命治療をすることでいつかはご主人が回復をする可能性は残されていますが、それがいつになるのかは断言することができません」
「……」
「そこでご主人の脳を奥さんの頭の中に移植するという方法があります、ご主人の脳は半分つまり右脳だけしかありません。つまり右脳を入れる空間があればいいわけです」
――ちょっと待って。
「私の中に移植って、そんな場所がどこかにあるんですか」
「移植するためには奥さんの右脳を摘出しなければいけません」
――そんなことして大丈夫なの。思わず叫びそうになる。
「脳を半分取り除いてしまっての大丈夫なのかという不安はよくわかります。大丈夫です。過去の症例において脳を半分摘出してしまっても今までと同じ生活ができている人は大勢いるのです」
「……」
「考えてみてください、ご主人も今現在は脳が半分しかない状態で生きておられます」
「でも、主人は意識が……」
「ご主人の場合は先ほども言いましたとおり、意志の疎通ができないのは別の問題なのです」
―― そうか。
「では、主人の脳を私の頭の中に移植した場合、頭のなかで主人と話ができるようになるんですか」
「いえ、それについては無理であるとお考えください。移植した場合、つなげることのできる神経はすべて繋げますが、繋がったからそれぞれの脳にある意識どうしで意思の疎通ができるというわけではありません。ご主人の意識は右側に、奥さんの意識は左側に、それぞれ独立して存在することになります」と先生は自分の頭の右と左を交互に指差した。
「通常、言語野、つまり言葉を理解する部分というのは左脳の側にあります。しかし幸いなことにご主人は左利きで、右脳に存在しておりました。左利きの場合右利きの場合に比べて言語野が右脳に存在する確率が高いのです。ですので、奥さんは左脳を残しますので言語機能に関しては何も問題はありませんし、ご主人の方も言語野の存在している右脳を移植しますので、うまく神経がつながれば会話をすることができるようになります」
自分の頭の中に良一さんの脳があるという状況を想像してみようとしたのだけれども、想像すら出来なかった。
「意識というものに関してですが、これは右脳、左脳どちらかに存在するというわけではなりません。どちらにも存在していると考えられています。といいますのも奥さん、てんかんというものをご存じでしょうか」
「ええ」
「てんかんの場合、薬物療法というものが広く行われておりますが、残念なことに薬物療法ではてんかんの発作を抑えることが困難な場合もあります。その場合、右脳と左脳を繋げている部位を切断して右脳と左脳を切り離すという外科療法があるのです」と今度は自分の頭の頂点から額に向けて指をおろしてくる。
「この方法によって、てんかんの発作を抑えるということができるわけですが、この外科手術を行った患者さんの意識が消えてしまうということは起こっておりません。若干副作用が起こる場合もあるのですが、その場合に関してもその副作用に対応する向精神薬を服用するといった方法で対処することができます。そして、右脳と左脳が分離した状態になるという点ではご主人と奥さんに提案する移植も同じ状態であるといえるのです」
「すみません、ちょっと今は理解ができないというかあまりにも突然のことで」
「はい、わかります」
「簡単に言えば、私の右脳を取り出して、そこに主人の脳を移植する、ということですよね」
「そうです」
「そんなこと今の医学できるのですか」
「ご主人の会社がうちの大学に資金提供していることはご存知ですか」
「はい」
「資金提供を受けていくつか研究が行われているのですが、その一つが私の行っている脳移植の研究なのです。これはご主人の会社の事業とも密接に関係があるのですが、まあこういった話はいまは関係ないので後回しにしましょう」と手を振る。
「脳移植が実際に行われていてそれが成功しているということはご存じですよね。ニュースでも流れることがありますから」
「はい、ニュースで見たことがあります」
「少なくとも脳の移植に関しては現在の医学では問題はありません。移植する脳と体との神経の接続は直接ではなくニューロン・トランスミッションと呼ばれる制御装置を経由して行うので、リハビリは必要になりますが、制御装置がリハビリによってうまく動くようになりますので大丈夫です」
「少なくともということは他になにか問題があるのですか」
「いま成功している脳の移植は全脳、つまり脳のすべてを移植した場合ということになるという点ですかね」
「じゃあ、脳の半分だけをっていうのはまだ実例がない」
「少なくとも犬に対しては成功しております。人間に対してはまだ行われておりませんが哺乳類での移植は成功しています」
「人間の場合はうまくいくかどうかはわからないってことですか」
「いえ、技術的な問題に関してはなにも心配はしておりません。現に手術を行った犬も元気で生きています。ほらそこに、奥さんの隣に座っていますよ」
 私の右側を指さした。
「この仔がそうなんですか」私は驚いた。
「ええ、コタロウとサクラです」
「首輪に書かれているのはやっぱり名前だったんですね」
「はい、元気でしょう。しかもかしこい」
「頭もよくなるんですか」
「いや、それはちょっとわかりません」と苦笑いをする。「ただその可能性はゼロではありませんが、期待はしないでください。コタロウとサクラがかしこいのは生まれつきでしたから」
 私はあらためてコタロウとサクラを見るが、その体に二つの意識があるとは思えなかった。
「そんなふうには見えませんね、いえ、二つの意識があるって意味で、賢くないというわけじゃないです」と私は慌てて訂正をする。
「そうでしょう」
少し自慢げな顔をした。
「あ、ただ、ちょっと気になったんですけれど、この仔、歩きだすとき、ちょっと変じゃありませんか、うまく説明できないんですが、なんとなくそんな感じがして」
「おお、よく気づきましたね」嬉しそうな顔をする。「たまになんですが、なにか行動をしようとするとき、二つの意識が競合してしまう場合があるんです。競合といってもほんの僅かな時間なんですが、どちらの命令を実行すればいいのか調製する時間が発生してそのときにタイムラグが発生してしまうんです。どっちの意志を優先するのかという仕組みに関してはまだ良くわかっていない部分もあるのですが、これも最初はもっと時間がかかっていたんです。なので慣れてくるということになるのでしょう。コタロウもサクラもそれで混乱するわけでもなく仲良く共存しています」
「ただ、名前を呼ぶときだけちょっと面倒で、両方の名前を呼ばないと、呼ばれなかったほうが嫉妬するんですよ。あたりまえといえばあたりまえなんだけど、呼ぶほうはちょっと手間だね。な、コタロウ、サクラ」
コタロウとサクラは嬉しそうな表情をした。本当に二つの脳が入っているようには見えなかった。
「人間に対して行われたことがないというのはそれ以外に問題があるということですか」
「いえ、単純に人に対してこの手術が行われてこなかったのは、必要がなかった、ということです。つまり、脳の半分だけを他の人の頭に移植しなければいけないという理由がなかっただけなんです、しかし、我々はその必要があると考えて研究を行ってきています。奥さんは、いま、脳の移植が世界中合わせてどのくらいの数、行われていると思いますか」
「えー、ちょっとわからないのですが、一年に十件くらいですか」
「良くて二年に一件程度です」
「そんなに少ないのですか、それはお金がかかるからという意味で?」
「もちろんお金もかかります。日本では自由診療になりますから保険も効きません。でもそれ以上に問題なのは提供者の問題です。特に遺族の方がおられる場合はほぼ不可能です」
「なんでですか」
「脳移植で生き返ったとしてもそれは別の人間になってしまっているからです」
――あ、そうかと私は思う。
「生きている姿を見てしまった場合、どうしても元の人であると思ってしまいます。しかしそれは違って別の人なのです。提供したいという遺族の方もいらっしゃいますが、事前にこのことを説明すると大抵の場合はやめてしまわれます」
「そうですよね」
「脳移植となりますと、男性の場合はやはり男性の体、女性の場合は女性の体を希望されますし、肉体年齢も同じか、それよりも若い体を希望されます。さらになんらかの疾患を持っていると提供されても移植する側が断る場合もあります。大抵の場合は健康な体を希望されますから。そういった条件も入れるとさらに厳しくなります。そうなりますと提供する側も、体全部ではなく、角膜だけとか体の一部なら構わないという人のほうが多いのです」
「難しいですね」
「そうなんです。脳移植の場合、拒絶反応が起こりにくいので移植後に免疫抑制剤を使い続けなければいけないということが少ないだけに、拒絶反応を考えなければいけない部分移植になってしまうことは残念でもあるんです」と残念そうな顔をする。
「しかし、脳を半分だけ移植するという方法であれば、患者の家族の方が志願していただくことで移植可能となるのです、そして……」
 先生の口元がにやりとする。
「脳死された人を待つ必要はありません」
――そうか。家族が助けることができるんだ。でもそこで大事なことに気がついた。
「私の脳を半分取り出すということなんですが、取り出した脳はどうするんですか、どこかに保存しておくんですか」
「保存しておくことは可能ですが、お薦めはできません、意識は外からの入力、つまり物を見るとか食べ物を食べて味わう、手で触って感じとる、そういった情報から切り離されたときに意識は……それ自体が維持できるのかがわからないのです。過去にマウスによる実験も行ったことがありますが結果はあまり芳しくありません。意識が消えてしまう、あるいはその逆で常に過剰の脳波が流れ続けるというような状態に陥ります」
「そうなった場合、死なせてあげるんですか」
「ええ、それ以外は……残念ながら。しかし、外部との接続はないので痛みというものはもともと感じていません。意識から見た場合、なにも感じることもなく眠るように消えていくので苦しむこともありません。奥さんも眠るときに今から眠るんだという意識などなく、気がついたら寝ていたという感じでしょう。それと同じです」
「わかりました。そしたら私の記憶はどうなりますか。半分も取ってしまって大丈夫なんでしょうか」
「記憶は残念ながら保証できません。ただ記憶というのは特定の場所にあるというわけではないんです」
「例えば」と右のこめかみの少し上を指しながら「昨日の夕食の記憶が頭のこのあたりにあるのかというとそんなわけではないのです、記憶というのはどこか特定の場所に保存されるものではなく、脳の神経細胞の中で多重に分散されて保存されているものなのです。なので脳の半分を失ったといって記憶も半分失ってしまったというわけではないのです」
 そうは言っても不安になってしまう。
「それに摘出した脳も神経細胞のスキャニングをおこなってデータ化しますので場合によっては部分的に記憶を取り出すということも可能です。しかし今の医学ではそこまでが限界で、神経細胞からある程度の記憶を取り出すことはできますが、それをそのまま元に戻すというところまではできません」
「じゃあ、運が悪いと良一さんのことを忘れてしまったり、結婚したことも忘れてしまうってことですか」
「可能性はゼロではありませんが、あくまで可能性としてはです。強い記憶というのは広範囲に残っているものなんです。逆に狭い範囲にしか残っていない記憶というのは重要度が低いと無意識に判別してしまっている記憶になるので、忘れてしまっても構わないような状態になっているんです。そんなわけで気休めにもならないかもしれませんが、忘れてしまった記憶というものはあらかじめ重要度が低いと分類されてしまっている記憶なので、思い出すことができなくても支障はない、ともいえます」
 にわかには信じがたい話ばかりなので、どこまで信じてしまっていいのかわからない。
 でもこの先生がいうことなので間違ってはいないのだろう。でも、理屈ではそうかもしれないけれど、理屈が正しいからといって、はいそうですかと受け入れられるわけじゃない。
「いま、ここで決めなければいけないことではありません。新藤くんの話では急いだほうがいいかもしれないけれど、じっくりと考えてみてください。疑問があったら何度でもお答えします。コタロウとサクラにも会いに来てください。この仔たちと触れ合ってみるのもいいでしょう。私からは以上です。あとは新藤くんのほうかな」
 と、話の続きを新藤さんにふった。他にもまだなにかあるというのだろうか。
「えーと、そんなに長い話にはならないんですけれども、大丈夫ですか。また日をあらためてということにしてもいいんですが」心配そうな顔で新藤さんは言った。
「いえ、大丈夫です。お話してください」
「わかりました。僕からお話するのは法律的な問題なんです。こんなことは前例がないことなので、移植手術をしたあとで法律的に良一がどういう扱われ方をすることになるのかわからないという部分があります。そこで法務部に信用のおけるヤツがいるのでそいつに調べてもらったのですが、今の日本の法律上では良一の脳を千佳子さんの体に移植した場合、良一が生きているとみなされることは難しいだろうということでした。そもそも千佳子さんは千佳子さんで生きていて戸籍を持っているからです。そこにもう一つの人間が存在しているということを普通は理解してもらえないでしょう。仮に一つの体に二人の人間が存在すると法律上認められたとしても誰がどのようにそれを認定するのかという問題もあります。こういう言い方は失礼な言い方になってしまいますが二重人格と思われてしまう可能性のほうが高いです」
――二重人格、そうか、一つの体に二人の脳みそがあるってことは、それを知らない人から見れば、そう思われても不思議じゃないのか。
「なのでそいつのいう話では、移植後に死亡したということにするほうがいいだろうということでした」
「死んだことにするんですか」
「はい、千佳子さんとしては納得できないという気持ちもあるのはわかります。しかし、移植して千佳子さんのなかに良一が存在することになった場合、法律上、二人とも生きているとは見なされない。良一が生きていることを証明できないというのがその後の障害になってしまいます」と申し訳なさそうな顔をする。「移植後も元の体をそのままにしておいて良一は生きているということにした場合、彼の頭の中は空っぽです。脳波計を付けて脳波を測ってもなにも検出できません。つまり脳死とみなされてしまいます。万が一それが第三者にばれてしまったとすると、すでに亡くなっているのに生きていると偽っていたと見なされて、厄介なことになってしまいます」
「穏便に済ますためには千佳子さんには申し訳ないですが、戸籍上は亡くなったものだと我慢していただくしかありません」
 脳を移植するという先生の話に比べたら、こっちはまだましか。戸籍上は死んだことになっても実際は生きているのだから、形式的なものにすぎないだろう。それに私は戸籍上も生きているわけで、両方とも戸籍上死んだことになるのなら大変だけれどそうじゃないのだから。

「録音したやつは僕のほうで文字に変換して、音声データと一緒にあとで送ります」
 病院の外に出るともう真っ暗だった。タクシー乗り場に一台もタクシーは止まっていない。昼間だったら一台くらいは待ち構えているけれども、こんな時間では乗る人もいるはずもなく、待っているタクシーなどあるはずもなかった。
 タクシーを呼びますけれど、どうしますかと新藤さんに聞くと、自分は駅から歩いてきたので、歩いて帰りますと答えた。
 私は思い切って聞いてみることにした。
「あの、一つだけ教えてください」
「はい、なんですか」
「どうして、進藤さんは私たちのためにここまでしてくださるのですか。脳の移植なんて、今日のお話では進藤さんにかなりの迷惑、いえ、ひょっとしたら警察に捕まってしまうかもしれないことじゃないですか」
新藤さんはしばらく私の顔をみつめていた。そして。
「……お話しますけど、話したあとで五分、五分経ったら忘れてください、約束してもらえますか」
――ああ。
 どうしてこんなことを聞いてしまったのだろう。いつも私は愚かだ。できることならば時間を5分前に戻したかった。
 すみません、聞かなかったことにしてくださいと、そんな言葉が思わず口から出そうになる。しかしそんな言葉を言ってしまえば、進藤さんを余計に傷つけてしまう。
「わかりました、五分経ったら忘れます」
 新藤さんの目を見つめる。
 新藤さんは視線をずらし、うつむいてしまった。
 しばらくして頭をあげ、私の目を見つめた。
「こんなときにこんなことをいうのは、いやこんなことをいってはいけないのはわかっています、ごめんなさい、初めて会った時から好きでした」
「でも、だからどうしたいというわけじゃないんです。今は単純に辛い思いをしているあなたのことを助けたい、ただそれだけです」
 新藤さんはそういって笑ったが、その笑いの奥に悲しそうな表情が見えた、気がした。
「ありがとうございます。でも進藤さんのことを利用してしまうだけになってしまうかもしれません」
 笑顔は見せず、真剣に答える。
「いえ、そんなこと気にしないでください。しばらくは会社のほうでいろいろと動かなければいけないので病院のほうには行けないと思います。でも事態が急変するようなことがあった場合には連絡します」
「お願いします」
「急かすようで、すみませんが、移植の話は考えておいてください」
「はい」
「じゃあ、今日はこれで」
 新藤さんは駅に向かって歩いていった。
 私は新藤さんの後ろ姿を、見えなくなるまで見続けていた。
 振り返ってくれることを期待していたわけではない。このあと、どうすればいいのかわからなかったからだ。
 街灯の続く夜の道のその先の暗闇を見続けながら、自分の未来も同じ暗闇であることに気がついた。その暗闇に向けて歩いていきたい衝動にかられる。

「ごめん、どうしたらいいのかなんてあたしにはそう簡単には言えないよ」
 どうしたらいいのかわからなくなって私は彩に相談をした。で、これが彩の返事だった。
「あんたが自分で納得する答えを出すしかない、ってのは正論すぎるよね」
 私は黙ったままだ。
「あたしがあんただったらどうするかっていえば、あたしはあんたほど今の旦那のことを好きじゃないよ。もちろん愛してるよ。でも自分の体を半分捨ててさらに旦那を自分の中に受け入れるだけ愛しているか、ううん、それだけ旦那のことが好きかっていったらそこまで好きじゃない」
「好きじゃないってかわいそうじゃない」
「まあ、あんたたちよりも長い期間一緒にいて結婚生活も長いからその分だけ愛情も冷めたというか、結婚したての頃とは愛情の質が変わっているってこともあるとおもうよ。だからもし、今のあたしじゃなくってあんたみたいに結婚したての頃の自分だったら、ひょっとしたら自分の体の半分を捨てて旦那を受け入れることをしたかもしれない」
「良一さんを受け入れたほうが良いってこと?」
 彩は何も言い返してこなかった。
 私は新藤さんのことについても彩に聞いてみた。疑いたくはなかったけれども、どうなるのかわからない脳の移植を薦めるなんて、良一さんが邪魔だからじゃないんじゃないだろうか。そんなふうに思ってしまう。
「うーん」としばらく彩は考え込んだ。
「その新藤さんって、変な意味じゃなくって純粋にあんたのことが好きなんだと思うよ。だってさ、良一さんのことが邪魔だったら、そんなこと言わないよ。考えてもごらん、その人が言っているのって、良一さんの脳をあんたに受け入れてほしいということとおんなじことなんだよ」
「……そうか」
「あのね、後悔なんて先にするもんじゃないよ。何をしたってどう生きたって後悔するときは後悔するんだからね。だったら今現在自分がしたいと思うことをするしかないんじゃないの」
「じゃあ、私が良一さんのことを諦めて新藤さんと一緒になる道を選んでも構わないってこと」
「それは止めときな」
 彩は少し怖い表情をする。
「どうして。後悔しなきゃいけないんだったら今じゃなくって後だって言ったじゃない」
「言ったよ。でもそれは、あんたが良一さんとしっかりと向き合った結果でそう言ってるんだったらあたしはあんたの決めたことを応援する。けどまだ向き合ってないじゃないかい」
「そんなことわかってる。わかってるわよ。でも怖いのよ。どうしたらいいの」
「……そうだね。まったく、神様が目の前にいたら殴りたくもなるよ」とやさしい声で彩は言う。「良一さんに話しかけてみたらどう?」

 新藤さんからは直接の連絡はなかったが、先生のお話を録音したレコーダーと、その内容を文字に起こしたものをわざわざ印刷して送ってきてくれた。
 先生の話を何度も聞き返し、そして読み返してみる。
 このままいつか目覚めることを期待して、ただ延命治療だけをしたほうがいいのだろうか。
 そうした場合、私はそれでも良一さんのことを愛し続けられるのだろうか。
 進藤さんの気持ちを知ってしまった今は少しだけ混乱している。
 いつか私は進藤さんの気持ちを受け入れてしまうかもしれない。
 でも、私はあのとき誓ったんだ。ずっと良一さんのことを愛し続けると。
 でもその誓いの言葉が呪いの言葉に変わってしまうのかもしれない。
 それとも、そんなことなど気にしない女になってしまうのだろうか。

 良一さんの包帯はもうすでに取れている。
 最初のころは辛くて見ることも難しかった顔の傷もだいぶ癒えてきていて、いまでは気になることもなくなった。
 頬をそっとさわる。
「起きてちょうだい」
 でも目を覚ましてくれない。
 手を握る。
 そのたびに握り返してくれることを期待してしまう。
 私の手をギュッとしてほしい。
 このまま握り続けていたらギュッとしてくれるかしら。待ち続けていたらギュッとしてくれるかしら。
「良一さん」
 目が覚めたらどんなことを喋ってくれるかしら。
 しかし、私は気がついてしまった。それは私の願いに過ぎないことを。
 目が覚めても良一さんは体を動かせない。私の手を握ることも、私が彼の手を握っても彼には握られたという感触さえ感じることはできない。

 今のままでは。

 どこだろう、ここは。
 周りを見るために頭を動かそうとしたけれど動かせなかった。手を動かそうと思ったが動かせない。思い出した。そうか、ここは病院だ。
 私は手術をしたのだった。
 カーテン越しに日が射しているのが見える。手術はうまくいったのだろうか。
 私の体は動くようになるのだろうか。

――良一さん。
――今、私の中にいますか。
――私の体はどうですか。
――ひとつになれましたね。
――ちょっと恥ずかしいです。

 看護師さんが来てカーテンを少し開けてくれた。カーテン越しに日は差していたけれども、窓の外は曇り空だった。こんな時くらい晴れ間を見せてくれてもいいのに。
 しばらくして久田先生が回診に来てくれた。
「手術前にもご説明しましたが。しばらくはご主人さんに対して話しかけることはしないでください。あくまで口に出してということで、頭の中で考えるとかは大丈夫です」
まだうまくしゃべることができないので私はうなずいた。
「左手が動かない。あるいは動かし辛いかと思いますが、一時的なものですから大丈夫です。右脳の神経接続は完了していますが今はニューロン・トランスミッション側で遮断しています。右脳の脳波が落ち着いてきたところで少しずつ接続を増やしていきますので、そうすれば以前と同じようになっていきます」
先生のことを疑うわけじゃないけれども、このまま寝たきりになってしまったらどうしようと思ったが、半日して少しずつ体を動かせられるようになった。

「ひとつ言い忘れていました。今までに目眩とかなかったですか」
「目眩ですか」
「ええ、目眩や物忘れとか」
「目眩はたまにありましたが、貧血だと思っていました」
「奥さんの脳のスキャニングをしていたんですが、腫瘍があったんです。悪性かどうかまでは調べていないのでわからないのですが、そのままにしておくといずれ治療が必要になったでしょう。昨日行った神経細胞走査では今の奥さんの左右の脳には腫瘍はありませんでしたので安心してもらって構いません」
「ひょっとして、運が良かったってことですか」
「うーん、考え方にもよりますけれども、ご主人に助けてもらったと思うこともできるかもしれませんね、良いほうに考えてみたらいいと思います」

「良一さん」
 口に出してみた。
 良一さんに話しかけてもだいじょうぶだと、先生から許可がおりたのだ。
 これで誰はばかることなく良一さんに話しかけられる。もちろん恥ずかしいので一人っきりのときにだけだけれども。

 数日後、進藤さんがお見舞いに来てくれた。
「昨日、会社が倒産しました。会社更生法が適用されましたので僕はまだ社員として残っております。残務整理もありましたので残って欲しいと依頼されたんです。まあ他の会社に買収されたほうが楽だったかもしれませんが、いずれはどこかの企業に買収されて吸収されてしまうんじゃないですかね」
 と新藤さんはやってきてそうそう、半ば他人事のように言った。
「それは、新藤さんも大変ですね」
「いや、僕は独り身ですしなんとかなります。良一のこともありましたので会社に残ったほうが……、なにもないと思いますが今回のことで問題の起こったときに対処できます。しかし、今までのように会社として行動できません。もちろん良一のことに関しては会社側としてはすでに対応済みという状態になっていますので、千佳子さんに迷惑がかかるということはありません」
 新藤さんの表情はにこやかだったので、多分いろいろ気苦労しなくてすむようになったのだろう。
「すみません、いろいろと」
「いや、そんなこと気にしないでください。それと会社としては何もできなくなってしまいましたが個人としてはできます。もちろん個人ですので自分自身ができる範囲ってことになりますが、相談ぐらいは大丈夫です。なにか困ったことがあったら、遠慮なく相談してきてください」
「ありがとうございます。えーと、良一さんは、まだ目覚めてこないんですが、目覚めたらご連絡します。新藤さんも良一さんとお話したいこともあるでしょうから」
「ありがとうございます。その時は遠慮なく、良一と話をします」

 朝の起床の音楽がなる。
 ゆっくりと起き上がりベッドのそばのテーブルの上のメモ用紙を見る。真っ白のままだ。
 私が寝ている間に良一さんが私の体を動かして伝言を残してくれないものかと期待をして昨日の夜、テーブルの上にメモ用紙とペンを用意しておいた。

「痛っ!」
 テーブルの角に頭をぶつけてしまったようだ。
 明かりは消えたまま。窓の外は暗く、まだ夜中だ。
 でも、変だ。
 ベッドで寝ていたのになぜテーブルの角に頭をぶつけてしまうのだろう。
 常備灯の明かりの下、テーブルの上のメモ用紙に目が行く。

…チカ

 たどたどしい線だったが、そう読むことのできる言葉が書かれてあった。
 なにが起こったのか理解できた瞬間、文字はぼやけて見えなくなってしまった。
 見えなくなってしまってもそこに何が書かれているのかはわかっている。
 流れ続ける涙を止めることもなく、私は泣き続けた。

 そして週末、退院できることとなった。

「良一さんの意識ってどうなっているんでしょうか」
 退院したけれども、定期的に検査を受けなければいけない。検査が終わったあとで私は先生に質問をした。
「奥さんは意識が大切だと思っていますか」
「……いえ、どちらかといえば心のほうが大切だと」
「ではどうして心ではなく意識のほうを先に考えているのですか」
「意識がないと心もないから、いえ、心を伝えるためには意識が必要だと思って。心があれば意識は必要ない、というわけではない。心の次に意識は必要だと」
「犬はしゃべりませんね、でも意識はあるんじゃないですか。そして心も」
今日はまだコタロウとハナコは見かけていないが、先生はコタロウとハナコのことをいっているのだろうか。
「哲学的な見地というのは別として、意識を物理現象のひとつにとしてみた場合、意識も心も本質的には同じものであり同時に違うものであると考えられます。見る人によって意識は意識であるけれども別の人から見た場合は心になる」
 なんだか学校の授業を受けているような雰囲気になってきた。
「奥さんは常に自分の意識というものを感じていますか。今自分は意識がある、と。あるいは心もそうです、今自分には心がある、と」
 そんなこと思ったこともない。
「つまり、あなたもご主人もあなたという体からの様々な情報を受け取って、そしてそれを意識という装置で認識しているわけです。ご主人の意識はいずれあなたと、あなたの意識に近づいていくでしょう。でもそれはご主人の意識が消えてしまうというわけではありません」
――難しいな。良一さんは理解できているのかしら。あとで聞いてみよう。
「こう考えてみてください。似た者夫婦って言葉がありますよね。長い間連れ添っていくとお互いが似てくるというやつです。それと同じことが起こってくると」
私が黙り込んでいると先生は話題を変えてきた。「ベンジャミン・リベットの実験って知ってますか」
「知らないです」聞いたこともなかった。
「ベンジャミン・リベットという学者が行った実験があるんです」
 先生は机の引き出しを開けてメモ用紙を取り出して、小さな丸を書き始めた。小さな丸は弧を描いてぐるりと円になり、最後の小さな丸は最初の丸の隣にならんだ。
「こんなふうにライトを円状に並べた装置を作って、そのライトを順番に点灯させていきます。被験者には自分の好きな場所のライトが点灯したときに手を動かしてもらうという実験を行ったんです」
「被験者の頭には脳波計をつけてあるので、手を動かそうと考えた時間と、そこから手を動かす指令を出す場所が働き出す時間、そして手の動いた時間の三つの時間を計ることで、考えてから手が動くまでにどのくらいの時間がかかるのか測定しようとしたわけですね」
「ところが実験を行ってみると考えても見なかった結果になってしまったんです。どうなったとおもいます?」
「わからないですよ」
「そうですよね、えー、普通は押そうとする意志が最初にあって、その次に手を動かす指令が出て、そして最後に指が動く。そう思いますよね」
「そうじゃないんですか」
「ええ、そうじゃなかったんですね。最初に動いたのは手を動かす指令の部分だったんですよ。で、動かそうという意志が働いたのはそこから0.5秒ほど遅れてからだったんです」
「それじゃ、おかしいじゃないですか。動かそうと思う前に体が動いたってことですか」
「そうなんですよ。思う前に体が動いた。つまり、人が何かを決定するときは、それよりもちょっと前に体が決めてしまっているんです」
「よくわかりません」
「たとえば、今日の夕食は何を食べようかと考えますよね」
「はい」
「で、今夜はカレーライスにしようと決めたとします。この時、カレーライスにしようと決めたのは自分の意識、正確には意識と思っているものが決めたのではなく意識ではない部分が決めているんです」
「意識じゃない部分、ってそんなものがあるんですか」
「意識以外の部分すべてがそうだともいえます。つまり意識というのはなにかを決定するものではなく、決定した事柄を理解するためにあるものと考えています」
「じゃあ、良一さんの脳はどうなっているんですか。良一さんの意識は」
「ご主人の意識は存在しています。しかし、ご主人の意識が奥さんの体に対してなにか行動をおこすということは奥さんが思っているほど多くはありません。ご主人と奥さんの意識以外の部分が決定したことは奥さんの体を動かします。その結果を意識は自分が考えて動かしたと認識するのです。ご主人の意識は奥さんの体と繋がっていますから、それはご主人が決めたことと全く同じであり、ご主人の意識は自分で行動を起こしたと理解するのです」
「すると、逆に良一さんの決めたことでもそれを私は自分で決めたと思っていることもあるってことですか」
「そうですね、行動の優先順位は奥さんの側にありますが、右脳と左脳とで重要度の異なる命令が起こった場合にはその重要度がご主人の側のほうが高かった場合、ご主人の命令が実行されます。その場合は奥さんの言われている状態になります。この時、判断するために若干タイムラグが発生するので、他の人から見た場合、動作が少し不自然に見える場合があります。……そうですね、たとえばこう考えてみてください。そろそろお昼になってお腹が空いてきたとします。ラーメンを食べようかそれとも牛丼を食べようか、そんなふうに悩むことってありますよね」
「はい。でも先生、さっきからカレーとかラーメンとか食べることばかりですね」と笑う。
「いや、すいません」と苦笑いをする「それはそうとして、じゃあ、ラーメンにしようと決めて、ラーメン屋に行ったとします。そこでラーメンを注文しようと思ったら、隣の人がチャーハンを食べていてそれが美味しそうだったのでチャーハンに決めてしまったと」
「たまにあります」
「こういうように、一度決定したものが途中で変化してしまうことってのは普通の人、つまり脳が一つしかない場合でもよくあることです。これっていうのは脳のどこかで常に多数決の判断が行われていて、人の行動ってのはその多数決の結果によって決まるということなんです。ですので、二人の脳が混在していても、行動が脳の中の多数決によって決定していれば問題ないといえます」
――そうなんだ。
「意識は人間の機能の中のごく一部の機能でしかないんですよ。だから脳を生かすというのは感情的な側面を無視すれば、手を失った人に他人の手を移植するのと変わりはない」
「先生が脳の移植手術をしているのはどっちを助けるためなんですか」
「私はどっちも助けるつもりで行っています。脳もそして体もです。その点でいえば意識がどっちにあるかあるいは意識があるかないかは関係ないともいえます」と先生は私のほうを見つめながら「犬には意識があるだろうけれども、自我があるかどうか、犬ではなくもっと小さな下等動物であっても、私は命をできる限り救いたいと思っています」と言った。

「良ちゃん、今日の夕飯はあなたの好きなアボカドとベーコンのパスタを作るわ。私も好きよ。お互い食べ物の好みが似通っていて良かったよね。味はわかるかしら」

…ああ、わかるよ。
…体をうごかすことも、しゃべることもできなかったけれども意識はあったから、なにが起こっているのか、少しは理解していた。
…気が付いたときは驚いたよ。まったく無茶をするんだから。
…俺のために自分の体を犠牲にするなんて。

「気にしないで。夫婦なんだから。それよりも私の体はどう」

…あまり自由に動かすことはできないんだ。そのうちできるようになるのかもしれないが、チカには迷惑にならないようにする。

「喋ることはできるのかな」

…喋ってほしいようなんだけれどもまだうまくしゃべることができないんだ。人間にとって口を動かすってことは思いのほか重要なことなのかもしれない。だから俺がチカの口を動かすためにはかなりのリハビリが必要なんだと思う。しばらくは筆談しかないな。

「そうね、お互いが喋ると混乱しちゃうかも」

 久田先生に言われて理解していたつもりだったけれども音が気になるようになってしまった。
 会話に関しては別に問題はないけれど、音楽は雑音に聞こえてしまう。
 今まで好きだった音楽をかけてみても良さが感じられない。いや音楽というよりも不規則に音がなっているだけ。
 歌声はわかるし、どんな歌詞なのかも理解できる。けれどもそれだけだ。歌声は普通に話をしているのと変わりはない。
 先生は、そのうちに言語野が音楽を理解するようになってくるので音楽も楽しめるようになるだろうと言っていた。
 しかし普段から音楽を聴くほど音楽が好きだったわけではないので、楽しめなくなるということに対してはそれほど不便を感じなかったのだが、一人の寂しさを紛らわすために音楽をかけておくのができないのは考えてもいなかった。
 そのかわり以前にもまして本を読んでいる。
 意識とか脳の働きとか、今までだったら敬遠していたような難しい本も先生に教えてもらって読んでいる。良ちゃんもそんな私の読書に付き合ってくれているようで、何度読み返しても理解できないところなんかわかりやすく解説してくれる。ありがとう、良ちゃん。
 ときどき、良ちゃんは私の知らなかった良ちゃんの子供の頃の話をしてくれる。良ちゃんがそんな話をしてくれることで、良ちゃんは生きているんだと実感できる。
 お金に関してはまだ余裕はあるけれども、仕事をみつけることも考えておかなければいけない。家にいるだけでは退屈でもあるし、体もなまってきてしまう。
 今までの私だったらできることが限られていたかもしれないが今は違う。なにしろ良ちゃんが一緒だ。だから私だけじゃできない仕事だってできるのだ。それを考えると倍の給料をもらってもいいくらいだと思う。コタロウとサクラがかしこいのはやっぱり二つの頭脳があるからじゃないのかと思う。

「ねえ、良ちゃん、そう思わない?」

 私の左手が胸を揉みしだいている。
 シャツはめくり上げられ、ブラはフロントホックを外されている。
 私はただそれを見ている。
 人差し指と親指が先端をつまむ。
 痛くはない、けれども私は何も感じていない。
 左手はやがてみぞおち、おへそとなでるようにゆっくりとやさしく下がっていく。
 下腹を通り過ぎ下着の中へと降りていく。
 私は何もできないでいる。
 触れられているという感触はある。良一さんの手を感じる。
 ネトネトと湿った音が聞こえ始める。
 けれども私は何も感じない。
 私の意志とは無関係に動いている私の左手。
 これは何。
 この手は何。
 良ちゃん。
 何も気持ちよくなんかない。
 やめて。
 私の右手が左手をつかんで下着の中から引っ張り出す。
 ヌラヌラと光った左手の指が視界に入った。

 き も ち わ る い

…すまない。自分でも抑えることができなかった。でももうあんなことはしない

 ゾッと寒気がした。
 私と同一になっていく。
 知らないなにかが自分になっていく。
 いや、それは良一さんよ。
 いや、それは私ではない。
 あれほどひとつになりたかったのに。
 いや、違う。
 ひとつになりたかったわけではない。
 一緒に人生を歩んでいきたかったのだ。
 一緒に歩んでくれるひとを愛したかった。
 ひとつになった自分ではない。

「先生、欲求不満ってのはあるんでしょうか」
 意を決して先生に聞いてみた。そんな中途半端な質問だったが、何を聞きたいのか理解してもらえたようだ。
「まず、本能レベルの部分を司っている箇所は移植していません。つまり奥さんの体自身のコントロールの決定権は最終的には奥さんにあります」
「本能ですか」
「はい、性衝動というのはその本能のレベルでの視床下部という場所で行われるのですが視床下部は旦那さんではなく奥さんのものなのです」
「この部分からテストステロンというホルモンが分泌されると興奮状態になるのですが、ふーむ、どうやらそのあたりがうまくいっていないというようですな。テストステロンによる伝達が奥さんのほうの側には届かず、旦那さんの側にだけ行ってしまったようです、いや、それとも……」
 先生は少し考え込んでしまう。
「もともと男と女とではこの部分には大きく違いがあって、男の性欲中枢の大きさは女性の二倍もあるんですよ。なので男のほうが一般的に性欲が強いわけで、事故が起こってから、いわば禁欲状態になっている旦那さんの意識としては飢餓状態にあったとも考えられるかもしれません」
「それってなんとかなるんでしょうか」
「うーん、今はニューロン・トランスミッションの調製のほうを優先しておきたいから、こっちのほうはテストステロンの抑制という形をとって、あまり興奮しないようにしておいたほうがいいかな」
 独り言のようにつぶやきながら私のほうを向いた。
「大丈夫ですよ。しばらくはいろいろと心のバランスが崩れるかもしれませんが、対処方法はありますから。まずはちょっと奥さんの心を落ち着かせましょう」

…自分でもよくわからなくなってきている。チカの動きは自分の動きのように感じている。ちょっと前までは自分の意思で動こうと思っていたけれども、今はだんだんとそんなことどうでもいい感じになってきている。チカの体を感じているだけで心地いい。
…このままひょっとしたら俺は、チカと同一になっていくのかもしれない

 同一って、え……
 体がゾクッとした。

「嫌悪感が無くならないということか……うーん、ドーパミンの低下かな」
 久田先生はカルテから視線を私のほうに移した。
「ドーパミンが減ると嫌悪感が増えることがあるんですよ。ちょっとドーパミンを増やす方向にしてみましょう」

…これからはチカが起きているときには寝ることにするよ。
…そして俺はチカが寝ているときに起きるようにする。そうすれば気に障らずにすむだろう。

 普通の夫婦ならばこんな時、別居するとかできるのに、私たちはそれができない。心は二つだけれども体は一つ。二心同体だ。

「どうしたらいいのでしょうか」
「うむ」と言ったきり先生は黙ってしまった。
 しばらくして、「カウンセリングを受けてみますか」と言う。
「カウンセリングを否定したり馬鹿にしたりするつもりはないですが、今の私たちには意味がないですよね」
「無意味だとは思いません。受けてみてそこからなにかが解決の糸口が見つかるかもしれません」
「でも私たちのような特殊な状態の人を見てくれる人っていますか」
「探してみなければいけませんが諦めるのはまだ早いと思います」

 どうしてすれ違ってしまうんだろう。
 なにがいけなかったのだろう。
 この嫌悪感はどこから来るのだろう。

「誰かを好きになるという気持ちはどこから来るのでしょうか」
いつもの定期診断が終わったあとで先生に聞いてみた。
「私は医者なのでその質問に答えることができません。ただ、好きになるという感情が意識として理解もしくは感じ取ることができるのはセロトニンとかそういったホルモンの影響にすぎません。身も蓋もない回答になってしまいますが」と先生は笑う。
「ではどうしてそういうホルモンが出るのですか」
「そうですね、それに関しては様々な要素が積み重なった結果でしょうね」
「そこに意識は関係しないのでしょうか」
「まったく関係しないわけではないでしょう。でも好きだという意識がなにもないところから発生するのかというとそれはないでしょうね。何らかの意識以外の部分で発生したものが意識にフィードバックさせるのだと思います」
「意識にフィードバックですか。その元の部分ってどこから生まれるんでしょうね」
「わからないからいいんじゃないですか」
「好きという気持ちも無くせるのですか」
「うーん、減らすことはできます。やったことはないですが。でもそれは意識に対してだけであって、やったとしても一時的にすぎません。あなたの体のどこかに好きという状態が残っていれば、またいずれ好きという気持ちになります」
「先生は合理的に考えられるんですね」
「私は医者であり研究者でもあるので合理的に考えますが、でもそれは感情に向き合う勇気がないから合理性を取っている面もあるんですよ。合理的に考えれば大抵のことは答えを出すことができます。良し悪しは別として。そしてそれを受け入れることもできます。しかし感情的に考えた場合は、これは自分自身を感情的に納得させなければいけないのですがこれは方法がありません。感情的に自分に向き合う勇気はないんですよ」
「感情をなくせば、合理的に考えられますか」
「どうですかね。悩むことがなくなるという点では、答えを出しやすくなるのかもしれません」
――どうしたらいいのだろう。
「ご主人の存在を異物として捉えてしまっているのでしょう」と先生が言う。
「少しコントロールを押さえてみましょう。急ぎすぎたのかもしれません。ご主人さんができることが今よりも少なくなります。今までできたこともできにくくなります。例えば腕を動かすことはできてもいまよりも動作が遅くなるという感じです。ご主人さんもそれでいいですか」

…はい。

と良一さんはタブレット端末に答えた。

「や、元気」
 彩から連絡があった。
「久しぶりに飲みに行かない」
 先生からは薬を飲むときに酔っ払っていなければ飲むのは構わないよと言われている。
 それって結局酔っ払うほど飲むなということだ。
 私も飲みたいという気持ちはそれほどない。けれども彩には会いたいという気持ちはある。
「あまり飲むことはできないけれどもそれでもいいのなら」
「うん、それでもいいよ。そしたら外で飲むんじゃなくって家で飲もうか」
「そうね、そのほうがいいかも」
「じゃあ、そっちへ行く?それともうちに来る?いま旦那は出張だからうちだったら気兼ねしなくっていいよ」
 この家から一度外へ出てしまうと、帰ってくる勇気がなくなってしまいそうだ。嫌いじゃないけれどもひとりぼっちのこの家に帰ってくる勇気は、今はない。
 彩の家に行ってしまったら帰られなくなってしまうだろう。もちろん彩のことだから泊めてくれるし、次の日も家まで送ってくれるだろう。
 しかし、そこまで甘えられはしない。
「うちに来てくれないかな。大したものはできないけれども食べるものは用意しておくから」
電話を切って三十分ほどしてインタホンが鳴った。

「新藤さんとは会ってるの」
 食事をしながら、突然そんなことを彩は言った。
「良一さんと意思の疎通ができるようになったとき、良一さんとお話しするために一回だけ。あとはたまに連絡があるだけよ」
 私は空いた食器を台所へ持っていきながらそう答える。
「新藤さんも会社のほうが大変だし、最近になってようやく落ち着いてきたみたいだけれども、私のほうも新藤さんにいつまでもお世話になりっぱなしじゃいけないしね」
「ふーん」
「ふーんて、なによ」
「いや別に。落ち着くところに落ち着いたみたいだから、良かったねって意味」
「あ、そ」
「良一さんとはどうなの」
「うん、うまくいってる」
 少し嘘をついた。
「よくわからないんだけど、今もあんたの中にいるわけよね」
「そうよ、でも多分、今は寝ているのかも」
「こんな時間から寝てるの」
「そう。まだ私の体に慣れていないっていうのと、起きている時間をずらしたほうがいいだろうってことで、私が起きているときは良一さんは寝ていて、私が寝ているときに起きるような生活よ」

「ある特定の感情だけ消すことができる場合、それをしてしまっていいのだろうか、と考えたことがあるのですよ」
 嫌悪感だけを消すことはできないものかと相談した時、先生はそう言った。
「医者という立場だと微妙な部分がありましてね。患者さんの希望に沿う治療をするのが当然でありながら、時として手助け以上のかたちで介入してしまう。医者としてそこまでしてしまっていいのだろうかとね」
「先生は反対なんですか」
「いや、結局、どこまでならば良いのか悪いのか、そのせんびきができるわけもなく、いつも悩み続けるしかないのだろう。というのが私の結論なんです。多分、よほどのことがないかぎり、その人が選んだ結論というのはその人の望むものであって、特定の感情を消し去ったとしてもその人が別人になってしまうわけではない。よほどのことがないかぎりね」
「よほどのことがあった場合は別人になってしまう、そうなんですか」
「そうですね、他人からすれば別人になってしまうかもしれませんが、当人にとっては別人ではないでしょう」

 私と良一さんは他人なのだ。

「先生、ところで、今、主人は寝ているんです。暫くの間はお互いに干渉しないように、片方が起きているときには片方は寝るようにしようって主人が提案してくれて」
「ご主人は本当にそんなことを言ったんですか」
「ええ」
「うーん、それはちょっとむずかしい気がするなあ。確かに、イルカとかはそういうことができるんです。脳の半分だけ眠って、半分は起きている。それは身の危険から逃れるためと呼吸をするためそうやって常にどちらかの脳が起きている状態にしているのですが、人の場合はそういう必要がないのでそもそも構造的にできないんです。例外的に脳に損傷を受けている場合とか薬の副作用とかでそういうことが起こる場合もあるんですが、おそらく奥さんが起きているときにはご主人は起きていらっしゃると思います」

 嫌悪感は薄れてきている。けれどもそれと同時に良一さんの存在感も薄れてきている。
 何をするにも億劫で気力がわかない。
 薬の副作用の一種だが、体がなれてくればもう少し楽になると久田先生は言っていた。
 良一さんはどう感じているのだろう。
 聞きたいけれども怖くて聞けない。
 それまでは、たしかに怖かった。
 でもいまは怖さも薄れている。

「良一さん、具合はどうですか」
そういって私は体の力を抜く。

 左手は動かない。動かそうと思えば動かすことはできる。でも彼の意志では動かなかった。

「お願いです、なにか言ってください」

 その日はとうとう、ひとりぼっちのままだった。

 翌朝、目が覚めて、いつもの癖でテーブルの上のメモ用紙を見てしまう。

 返事があった。

…チカ、俺を開放してくれないか

「どうしたの」

…今のままではチカがダメになる

「そんなことないよ」

…いや、俺にはわかる。なにしろ俺はお前なんだから

…こうしてお前の中にいると、だんだんとお前と同化してきているような感じがする。多分、いずれ俺の意識はお前の意識に置き換わってしまうんじゃないか

「そんなことはないって、先生も言ってたよ」

…そうかもしれないが、チカから見た場合、おそらく俺を感じ取ることはできなくなるだろう。俺を感じ取れなくなる前に、俺が俺であると感じている間に、俺を開放してくれ。そのほうがお互いのためになる

…チカ、俺に対して嫌悪感があるだろう

…嫌悪感を持っているのはお前の体だから、俺がいるかぎりそれをなくしてあげることはできない。それに、なによりも俺自身も俺を嫌悪しているんだ

「嫌よ。そんなことできない。だったら、一緒に死のう。あなたを殺すなんて私にはできない」
「だからあなたが私を殺して。今夜、私が寝ている間に」

 目覚まし時計が鳴る。昨日、解除し忘れていた。
 そして目が覚めた。
 私はまだ生きている。
 ずるい。と思ったがずるいのは私のほうだ。良一さんには私の体をそこまで自由には動かせない。

エピローグ

 少しだけ散歩をするつもりだったけれども、足を伸ばして海辺まで歩いてみた。
 砂浜を歩くのは大丈夫かなと思ったが、素足になって歩いてみると一歩一歩踏み出す私の足を砂浜は優しく受け止めてくれる。思い切って波が足元を濡らすくらいまで海に近づいてみる。
 曇り空の下の海はいつもよりも少し荒れている。大きな波が来そうだったので慌てて後ろに下がる。あの日もこんな曇り空だったが、散歩をするにはこのくらいの天気のほうが心地よい。
 私の頭の右半分にはシリコンの塊が入っている。
 右脳を失った私は左半身をうまく動かせなくなってしまった。
 久田先生はリハビリを続ければある程度は回復するとおっしゃってくれている。先生は今も親切にしてくれている。私が自分の決断を話したときも優しく受け止めてくれた。だからいまもリハビリを続けている。
 良ちゃんの書いたメモ用紙は全部取っておいてある。今はまだ見直すのがつらいけれど。
けっきょく、あの日をさかいに良ちゃんは私と話をしなくなってしまった。良ちゃんからの最後の言葉は私にとって悲しい言葉だった。私が何を言っても無視し続けた良ちゃんはやっぱりずるいと思う。でもちょっとだけだ。私が良ちゃんに返した言葉はもっとひどい言葉だった。一番ずるいのは私だ。

 本当は私も薄々わかっていたのだ。良ちゃんの意識が少しずつ変わってきていたことを。
 私の体のフィードバックを認識するのが意識であるならば、良ちゃんの意識も私であることを。
 コタロウとサクラはそんなこと気にしていないのだろう。私もコタロウとサクラのようになれればよかった。

 人間のほうが傲慢で愚かだ。

 私は何を失ってしまったのだろうか。
 良ちゃんを失ってしまった。
 私の右脳も失ってしまった。
 ううん、でも右脳を失ってしまったことは後悔していない。
 それよりも良ちゃんを失ってしまったこと、いえ、私は良ちゃんを二度殺してしまったのだろう。そうなってしまったことで良ちゃんには申し訳ないという気持ちはある。でも今はまだなにも感じていない。怒っているかな、良ちゃん。
 だから、良ちゃんがついた嘘に関しては許してあげる。私よりも先には死なないって言った嘘に関しては。
 失ったけれども、喪失感がない。
 右脳と一緒に喪失感も消えてしまったのかもしれない。
 でも、私は今も良ちゃんのことを愛している。誓いのあの言葉も忘れてはいない。
 久田先生が言っていたように、意識っていうのは肉体のフィードバックを受け止めるものなのだろう。ようやくそれを実感できるようになってきた気がする。
 私は何を失ったのか。それを本当に理解できるためには、私の体が頭の右半分を占めているシリコンの塊を受け止めて、そして私の意識にフィードバックしてくれるときまで待たなければいけないのかもしれない。

 だから私はその時がくるまで生き続ける。

 無意識に左手が何かを握ろうとしてしまう。誰もいないのに。

終わり



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