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波が消えるとき

 隣で寝ていた男の寝返りをうったその足がぶつかってきた。おかげで目が覚めた。外海に出てから波がおだやかになり、ゆりかごのような揺れにいつのまにか眠ってしまっていたようだ。鼻のなかの異物感は残っていたがあわてて鼻に手をやる。防塵フィルターは鼻の穴のなかにしっかりと収まってくれていた。男に蹴られた瞬間にやってきた怒りはすぐに去っていったが、あとでゆっくりとおとずれた不安に胃の辺りがギュッと掴まれる。下腹部にも不快感がおとずれる。いくら熟睡していたとしても鼻の穴から防塵フィルターを抜き取られれば気がつくだろうが、この薄暗いコンテナのなかでは誰が盗んだのかなんてわかるはずもない。コンテナに入れられたときから眠るまいと努力をしていたが、蓄積された疲労とゆりかごのような揺れの前には無力だった。しかし、ほかの人間はみんなすぐに寝転がり、しばらくすると寝息やいびきが聞こえ始めたので盗まれる心配など必要なかったかもしれない。それにこんな坊主頭の貧相な体だったら襲われる心配もないだろう。でも、不安は去ったがいくら待っても安心はやってこない。波は穏やかになったが収束はしない。
「船が到着するのは順調にいけば二十時間後だ。コンテナのなかに入ったらなかからはもう外に出ることはできないぜ」埠頭まで連れてきた男はそう言っていた。「ションベンをしたくなったらどうするんだ」「なかにあるバケツにするんだな。したくなかったら何も飲んだり食ったりしないほうがいいぜ」まったく信用できなかった男が言ったたったひとつの冴えた提案だったが、気休めにもならなかった。男はコンテナのなかには小さな電球が灯っているから安心しなと笑ったが、これは半分本当で半分嘘だった。コンテナの天井からぶら下がっていた小さな電灯は扉が閉まってしばらくして切れた。電気が切られたのか、電球が切れたのか、どちらなのかわからなかったが、わかったところでちっぽけな好奇心を満足させるだけにすぎない。扉の隙間からもれる光だけがなかにいる人間を照らしていた。男が言ったとおり、閉められた扉は中からは開けることはできず、コンテナのなかではどうせ寝るしかないのだから。案の定、だれも文句も言わなかった。
 考える時間はいくらでもあったし、それしかすることはなかった。だれかを起こして話しかけるなんて体力を消耗するだけにすぎない。最後に見た弟の顔を思い浮かべる。市民権も持てない下層世界の生活のなかでお互いにやせ細った顔だ。貧相な顔を見るたびによく弟の鼻をつまんだものだった。「何すんだよカーター」こんな生活から抜け出してやる。弟の顔を見るたびにそう思っていた。「嫌なことがあったら自分の鼻をつまむんだ、ロニ」「何でだよ」弟は笑う。「夢かもしれないからさ」「それって、ほっぺたの間違いじゃない」「うるさいな、夢はほっぺただけど、嫌なことは鼻なんだよ」だが、どこで失敗したのだろう。
 無意識に指が鼻に触れようとしていた。上げた手を下ろす。まだ大丈夫だ。
 コンテナのそとで話し声が聞こえた。
「くん中んかいうぅるひゃーやむる売り物んでー」
 知らない言葉だった。なにを言っているのかわからない。
「あまぬコンテナーあんぐとーん。くまー選別しバラし売買さりーるぐとーんしが、知っちゃるとぅくるっしかかわいねーんだる」
「ああ、あんやん。わんたちゃ運でぃ運送費いーいんがなやん」
 話の内容がわかったところでなんの役にたつのだろうか。むしろわからないほうが下手な歌を歌われるよりはましだった。隣で寝転がっている女はさっきからずっと口ずさんでいる……家に帰ろう、この青い空の下。家に帰ろう、あかるい太陽の下。ビームしておくれ、ふるさとへ……。歌い続ければうまくなるとでも思っているのだろうか。次にコンテナの扉が開いたときは深夜だろう。空を見上げてもこの世界の美しいものも醜いものも全て覆い隠すベールしかみえない。見せたくないものも見たくないものもみんなそのベールの下にある。
「家に帰りたい……」向こうの方からべつの女の声が聞こえてきた。輪唱でも始めようとするつもりか、こいつらは。
 しかし人のことは言えない。口には出さないがずっと頭のなかで反芻している。

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弟に割り振られたアドレス番号だ。もう覚えている必要もないが、だからといって忘れなければいけない理由もない。このアドレスだけが弟と結びつけてくれる。防塵フィルターに隠したマイクロ端末を起動すればpingコマンドが実行され、一バイトのデータがネットワーク回線を通じて弟のマイクロチップにアクセスしにいく。そして弟のマイクロチップは応答を返す。そして応答があったことで弟が生きていることが確認できる。pingは指定したアドレスが存在しているかどうかを確認するためのプログラムだ。弟のいる場所は帰る場所で、そしてふるさとだ。でもこの船が行く場所は違う。どこに連れて行かれるのかもわからない。行き先不明は市民権を手に入れる代償だった。
「カーターが市民になればいいんだよ。カーターのほうがぼくなんかより頭がいいんだから」お前を市民にしてやると言ったとき、弟は嬉しそうな顔もせずにそう言った。「だいじょうぶだ、ロニ。おまえが市民になったあとで、市民になるから」そして弟が喜ばなかったことで僅かに残っていた罪悪感は消えた。
 どんなに頭が良くてもその代償に肉体が含まれている以上、市民にできるのは一人だけだった。
 さっきからしきりにもぞもぞと動いていた男が立ち上がるのがみえた。薄暗くてもそのくらいは見える。そいつはコンテナのはしの方に歩いていく。やつの向かう先にはバケツがある。嫌な予感がした。やがて水道などないのにバケツに水のたまる音がした。隣の男は舌打ちをする。寝ているかとおもったら起きていたのか。バケツがどのくらいの大きさだったのか記憶にないが、バケツが奏でる音はまだ終わりそうになかった。いまできることといえば祈ることぐらいだが、こんなことで祈って運を使い果たすのは馬鹿らしい、だれか変わりに祈れよ。あいつの小便が早く終わりますようにと。
 音が止むと「すまねえ」という声が聞こえた。そいつもほんの少しの罪悪感は持っていたようだ。もっとも上半身だけだ。次は下半身も躾けておけよ。
 実用化され張り巡らされた量子通信を利用すれば相似率の高い双子であればお互いの意識を交換できることは可能だった。弟に市民権を買い与え、そのあとで量子通信を利用して弟の脳内に自分の意識を転送かける。弟の意識は逆方向に移動する。脳内に埋め込まれたマイクロチップを経由すればそれは可能だった。体の交換だ。いままで誰もやろうとしなかったのは双方の相似率の問題だからだ。市民権の無い下層の人間でもボランティア施設に行けば量子通信は無制限に使うことができた。関係する論文を読み漁り、双子であれば問題は解決する確信が持てた。これで毎月血を流すこの体ともおさらばできる。
 双子の弟がうらやましかった。弟の健康な体がうらやましかった。自分を裏切り続けるこの体と交換したかった。
 しかし、独学で学んだ知識には限界があった。量子通信で結びつけるネットワークの関係制御に失敗すると並行する世界のどこかとつながってしまうことまで理解していなかった。だからこうしていま、コンテナのなかにいる。pingしかできないマイクロ端末を鼻の穴に入れ、この世界の自分はどうしてこんな場所にいる羽目になったのかわからない。もうすこしこの体に慣れてくればこの体が覚えているはずの記憶にもアクセスできるようになるかもしれない。
 これからどうなるのだろうか。この先に待ち受けているかもしれない悪いことを考えると、弟に譲らず、意識の交換もせずに自分が市民になっておけばよかったと後悔する。弟を犠牲にしようとしたことは後悔していないくせにだ。
 隙間から漏れる陽の光が弱くなってきた。夜が近づいてくる。とうの昔に空っぽになった胃が音を立てる。もう一度頭のなかで転送プログラムのコードの間違いを調べる。考える時間はたっぷりとある。どこで失敗したのだろうと考えるけど、いくらコードを見直しても間違いは見つからなかった。
 入れ替わったもう一人の自分も、いまこの瞬間に同じことをしているのだろうか。同じ自分だからお互い様で罪悪感など微塵も感じないが、ふと頭によぎった。自分が原因ではなくこの世界の自分がこの状況を起こしたのかもしれないことに……。量子通信を使い弟と意識交換をしようとして失敗したのではなく、この世界のわたしが平行世界のわたしと意識交換をしたのだ。そう考えても辻褄は合う……焦りと怒りで心臓の鼓動がうずまく。意識がとぎれとぎれになる。もう一度コードを調べようと思った。しかしさっきまで頭のなかにあったのに、コードはおぼろげになっていく。
 横になろうとおもったが、いつのまにか床に寝転がっていた。上半身を起こそうとしたけれど力が入らなかった。起き上がるのもめんどうだ。
 家に帰ろう、この青い空の下。家に帰ろう、あかるい太陽の下。ビームしておくれ、ふるさとへ……気がつくと昔聞いた歌を口ずさんでいる。ビームしておくれ、ふるさとへ……この歌詞の続きはなんだっただろう……家に帰ろう、この青い空の下。家に帰ろう、あかるい太陽の下。ビームしておくれ、ふるさとへ……。繰り返して口ずさむけど思い出せない。でも歌い続けていればそのうち思い出すかもしれない。
「うるせーな」隣の男が舌打ちをした。
 家に帰りたい……。鼻の上から防塵フィルターをつまめばシステムは起動し、自動的に弟のアドレスに対してpingが実行される。そして応答が帰ってきたとき、防塵フィルターに偽装したマイクロ端末は鼻腔を刺激してくれる。一人分の市民権を手に入れた後で、それ以外に手に入れることができたのはこの小さな端末だけだった。たしかそうだったよな。
 扉の隙間から夜が近づいてくる。すべてをベールで覆い尽くしてくれる。嫌なことも辛いことも。波は穏やかになってきた。
 コンテナの扉が開いたら小鼻をつまもう。もうすこしだけの我慢だ。

許してほしい、ロニ。そして、鼻をつまんだらpingしておくれ、ふるさとへ。この意識ものせて。

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