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朔望とスペクトラム

貞久萬

 眞琴がうちのクラスに転校してきたのは中学三年の二学期のことだった。自分の席につくと隣に机と椅子がおかれていたので転校生が来るのかと思ったおれの勘は当たった。制服がなく、自由な服装で構わないうちの学校のなかで、眞琴が着ていた学生服は黒板の前で目立っていた。そんなふうに顔よりも服のほうに目が先にいったくらいだから顔は平凡、俺の好きな芸能人に似ていたかもしれないが、それさえも、そう言われればそう見えないこともないかな、という程度だった。ウケ狙いするわけでもない簡素な自己紹介は、転校初日を無難にすごしたいという意思表示みたいだった。そして眞琴はおれの隣に座った。汗の匂いが漂ってきたが、不思議と嫌な匂いじゃなかった。野郎の匂いなのに。
 転校生というステータスも一週間もすればなくなったが、眞琴は誰と仲良くするわけでもなかった。そりゃ三年の二学期だから、あえて友達作りで苦労する必要もないし、高校受験を控えているのだからそんな時間も勿体ないだろう。
 翌週、眞琴はスカートをはいてきた。しかし意外と似合っていて、女だといわれても違和感はまったくない。だからクラスでは気味が悪いぐらいに話題にもならず、眞琴は教室の風景として溶け込んでいた。
 眞琴の秘密を知ったのはその日の昼休みのことだった。担任に呼ばれて職員室に行った帰り、教師用のトイレから眞琴が出てきた。しかも女子トイレからだ。女子トイレから女が出てくるのは当たり前のことだったが、それが眞琴だと気がついたとき「あ」っと声が出てしまった。眞琴はしまったという顔をする。おれが勝手に男だと思っていただけで本当は女だったのか。いや、体育はおれたちと一緒だったし、着替えも一緒だ。ジロジロ見ようとはしなかったけど胸もなかった……と思う。自信はないけど。
 眞琴は混乱しているおれをトイレに連れ込んで、さらに混乱させることを言った。
「めんどうだから簡単にいっておくけど、僕は体は男だ。でも心は男と女を行ったり来たりしている。そしていまは女だ」
 体は男として生まれた眞琴だが、心は男ではなかったらしい。正確にいうと一ヶ月周期で男から女に変化していく。一ヶ月かかって眞琴の心は男から女に、そして一ヶ月かけて女から男に変化していくらしい。もちろん体は男のままだ。眞琴の心は月の満ち欠けのように、少しづつ男の部分が欠けていき、その欠けた部分を女の心が満たしていく。いきなり女になったり男になったりするわけじゃない。不思議なはなしだが、じゃあ一ヶ月の半分くらいのところでは男と女が半々になるわけで、そんときはどんな感じなのかと気になるのだが、眞琴もうまく説明できないようだった。女になったからといって口調が変化するわけでもない。精神科につれていかれたり、カウンセリングを受けさせられたりしたようだが、それに関してはあまり詳しくは語ろうとしない。何度も検査させられたが、脳のどこにも異常は見つからず、心意的な問題じゃないかと思われたときもあったようだ。だけど何か変わるわけでもなく今に至っている。

「性別ってのはスペクトラムなんだよ」と眞琴が言ったが、おれには理解できなかった。
「デジタルの0か1かのように、男か女のどちらかできっぱり分かれるわけじゃないんだ」続けて言う。眞琴の秘密を知って以来、席も隣同士だったせいもあってよく話すようになった。もちろん込み入った話は学校のなかではなく帰り道のマックとかでだ。
「きっぱり分かれないというと……あ、そうか、眞琴の一ヶ月みたいなものなのか」
「うん、そう考えないと僕のこの変化は説明できないと思うんだ。男と女の境目はなくて連続体なんだ。100パーセント男、100パーセント女という人もいれば、両方が色々な割合で混ざり合っている人もいる。男だからといって100パーセント男とは限らなくて何パーセントかは女が混じっていると思うんだ」
「色のグラデーションみたいだな?」
「うん、虹みたいだったら面白いけれどね。男と女が混じり合って、その割合によっていろんな性別が生まれるとか」
 眞琴は女に近づくにつれて服装の好みが変化していく。男っぽい服装が嫌いになるということだった。男としての部分に違和感が生まれていくらしい。だから男が着ないような服を着たがる。幼い顔つきの眞琴は、マッシュベースでラウンドしたショートヘアの髪型であることもあって、女装しても見た目は全然問題なかった。
 高校受験の時期になると眞琴とは疎遠になっていった。おれが遊びに誘っても勉強しなければと、断ることが多くなり、おれのほうも勉強の邪魔をしてまで遊びに誘うのはどうかと思っていたので、どうせ受験が終われば前のようにもどるだろうし、と誘わなくなっていった。しかし、受験が終わっても、なんとなくきっかけがつかなくなり、高校も違う高校に通うようになってしまったこともあり、今度は本当に疎遠になってしまった。
 再び眞琴と出会ったのは偶然だった。真琴は近所にできたばかりのコンビニでバイトをしていた。数カ月ぶりの眞琴はずいぶんと男っぽくなっていた。

そのことを言うと眞琴が「ひげも生えてきちゃったよ」と笑った。そして今はちょうど男まっただなかということだった。一番楽な時かと言うと、男と女のちょうど中間あたりのときが一番落ち着くと眞琴は答える。
「男のときは一致しているから違和感はないけど、違和感がないからこそ、もう一つの自分が否定されている気持ちが起こるんだ。女になっているときはこの体に違和感があっていつも落ち着かない。けれど中間は、男でもない女でもない、どっちでもなくていいんだと感じさせてくれるんだよ」
「そうなんだ、意外だな」

 一年ほどして眞琴はコンビニのバイトを辞めてしまい、接点がなくなってしまった。でも連絡先は交換しておいたのでたまに「合わない?」と連絡が来る。そのときだけ眞琴に会いに行く。
 頻繁に会うようになったのは大学生のころだった。眞琴は高校を中退して働いていた。二十歳になって成人式には出ない代わり二人で居酒屋で成人式をした。
「みんながうらやましいよ」酒を飲みながら、眞琴はボソッとつぶやいた。「そりゃ体と心の性が違って苦しんでいる人がいるのは知ってるよ。でも、ただ違うだけじゃん。心の性にからだのほうを合わせてしまえばいいじゃないか」眞琴の吐露をおれは黙って聞いていた。「僕はどっちに合わせたらいいんだろう。心が男のときには大丈夫だよ。でも一ヶ月もすれば女になってしまう。僕の体を見てみなよ。ひげも生えてきたし、体つきも男っぽくなってしまった。前のように女性物の服を着ても男が着ているようにしか見えない」
「心を男、いや、どっちかに固定できないのか?」
「どっちに? どっちも僕なんだよ。どっちを選べというの?」
 体が男だから男にしたほうがいい。と思ったがそんな単純なものじゃないのだろう。結局何も言えず黙り込んでしまった。
 酔って本音で話をしたせいか、お互いの距離はかなり縮まった。その夜、二人っきりの成人式は終わった。

 服を脱いだ眞琴の胸に蝸牛がいた。左の乳首からななめ下に線が伸び、そこから真横から見た少しコミカルな蝸牛が皮膚の上に描かれている。乳首は蝸牛の目だった。そして殻は七色の虹が渦を巻いている。
「ずいぶん派手だな」「うん、けっこう痛かったんだよこれ」「さわってもいい?」「言わなくても触るくせに」眞琴は笑う。
 会うたびに眞琴の入れ墨は増えていった。それは自分の体にたいする呪術であり呪詛だった。隙間なく呪詛で埋め尽くしていって、そして男でも女でもない体を手に入れる。真琴はそう言った。まだ描かれていないまっさらな場所が次第に少なくなっていくのを見るのは、そこにおれの居場所が無くなっていくようでもあり、おれの存在を刻みつけたくなる衝動に駆られる。呪詛の隙間に手を触れる。

 眞琴と最後に会ったのは空港だった。タイで睾丸とちんこを取りに行ってくるらしい。「女になるのか」と聞くと首を横に振った。自分の体から男の要素を取り除くためだった。どうすれば男でもなく女でもない体になるのか。当の本人もまだはっきりとはわかっていないようだったが、そのための最初の一歩は睾丸とちんこを取ることから始めなければいけない、眞琴そう信じていた。
「男じゃない体になったらもう会ってくれないだろう?」眞琴はぽつりと言った。
「……そんなことない」
 一瞬できた沈黙に眞琴は沈黙で答えた。沈黙が重く横たわる前に飛行機の搭乗アナウンスが流れてくれた。眞琴は軽くうなずくと搭乗ゲートに歩き出す。眞琴の背中はどんどんと小さくなっていく。振り向いたら声をかけようと思っていたがそんなタイミングはなく、やがてその背中も人ごみの中に消えた。そして眞琴の乗った飛行機は数時間後に南シナ海沖に消えた。

「会えない?」
 そのうち連絡があるんじゃないか。そんな気がするときもある。でも、生きていて、そして手術が成功していたら、眞琴はおれに連絡してきただろうか。そう思うたびに、もう忘れようと考えてしまう。
 男でも女でもない魂は男という肉体から解き放たれたのだから、これでよかったんじゃないかと思う。と同時に、最後に見た眞琴がまだ男の体だったことに安堵を覚える自分がいるからだ。

(了)

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