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(日記)ヒーローの話 / 嫉妬の話

きょうはお昼に親子丼を食べながら面白い話をした。

「Pokkeにとってのヒーローって誰?」と問われた。正直、難しかった。聞いてきたその人自身も、自分にとってのヒーローはぜんぜん思い当たらない、と言っていた。最初は「自分自身、ですかね」と答えた。ヒーローって救ってくれるイメージがあって、でも自分を救うのって自分しかないよなぁ、とちょっと抽象的に考えていた。

店を出てから、「小学校のときでいえば、図工の先生とかはヒーローだったかもしれない」と思い出して、その話をした。

図工の先生には、とても憧れていた気がする。音楽とか書道とかも好きだったけど、それとはまた一線を画して、だ。空想というか、思っていること、こんなものがあるといいなーということを、色や形で実現できるのがすごいと思っていた。それから、自分がそれをうまくできないときに、アドバイスをくれると見違えるように作品が変わっていくのが、使い古された例えだけど魔法みたいで楽しかった。あれは「ヒーロー」を見つめている感覚に近かったと思う。

先生は変われど、図工の先生、中学に入ってからは美術の先生には憧れていた。中学の美術の先生は仏像LOVEな人で、よく私の作品を校内展覧会で優良賞にしたり都展とかに出してくれたりしたけど、それは私へのお気に入りバイアスだったのか、ふつうに作品がその先生にヒットしていたのか、今でも分からずにいる。でも、確か修学旅行のポスターを描くときに、その先生が描いたものが「好き」に溢れている感じがして、とても良かったのを覚えている。

(でも、書いていて思い出したけど、期末考査で私の答案の名前の部分を消して解答として全体に配布したのはちょっと面食らったしやめてほしかったな……)

話がもどって、親子丼屋さんの帰り道、「(図工の先生は)アドバイスでみんなを変えてくれる人だった」という話をしたときに、「それって〇〇さん(上司)」と同じじゃない?」と突っ込まれた。

確かに、そうだと思う。いつも何かひとことで人の成長の角度を変えてくれる。「でも候補には上がんなかったんだね〜」と冗談まじりに笑っていた。

そのときはまとまらなかったけど、上司のその人はヒーローとはちょっと違うな、と思う。一瞬一瞬において、強大な助けとしてのヒーローではあるんだけど、ヒーローと一緒に何かを追いかけようとは思わないからな。リアルタイムで(まだ及ばないけど)肩を並べて同じ景色を見たいと思っている時点で、何かヒーローとは違う気がする。

関係ないけど、いくつか種類があった親子丼のうちのひとつが「香草美水鶏」という不思議なきれいな名前で、値段の高い「名古屋コーチン」よりもてはやされていたのが面白かった。


最近で印象に残った話がもうひとつある。

「嫉妬ってしますか?」という話が、ホルモンを焼きながら呑んでいるときに出た。

「めっちゃする。毎日が小さな嫉妬の積み重ね」という人と、「ぜんぜんしない」という人と、もうひとりはなんて言っていたか忘れた。

自分は、今はそんなに嫉妬しないと思っているけど、めちゃくちゃしたときもあった。とくに思春期はコンプレックスとか苛立ちとかの手綱をぜんぜん握れていなくて、身の回りの人でもテレビの中の人でも誰彼構わず嫉妬しているような時期もたしかあったと思う。

今あるとすれば、同期のグループで会って、誰にも春がきてないことを確かめるあの瞬間に、嫉妬の予感はある。だいたい会の中盤で、誰かが勇気を出して「恋人ができた人〜?」とおどけて聞くのだ。そのときに誰も手を挙げず無言であることの、さみしいような安心感。きっとここで手を挙げた人がいたら、その恋人に、自分はきっと嫉妬するのだろうという淡い予感がある。我ながら面倒くさい。

嫉妬がエネルギーになることもあるから良いとは思うのだけど。というか、なんでこの話題になったのかは忘れてしまったな。お酒を呑むと結構、話の輪郭だけを覚えていて詳細や時系列は忘れてしまう。

謎かけを長時間していたのは覚えている。

「仲良い友だちに恋人ができたら嫉妬すると思う?」と聞かれて、「いや、いろいろ考えたけど、きっとそいつが今より面白くなるからいいと思う」と答えていた人がいて、それもいいなと思った。答えが、というよりその答えが出てくるまでの過程や関係性が。

話がゴチャっとしてしまったけれど、なんとなく、嫉妬もできるときにはしておいた方がいいのかな、と今は感じている。昔のような鮮烈さで、まっすぐな嫉妬を覚えることって気づいたら少なくなってしまっていそうだから。付き合い方を覚えたり、醜さを感じたりしてしまうと、そういう感情はいい意味でも逆の意味でもしぼんでいくものだな。

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