令和6年能登半島地震ルポ金沢市より②


【読む際のお願い】
⭐︎令和6年能登半島地震に関して、地震災害やテレビによる災害速報について記録しました。心身に負担を感じやすい方はご注意下さい。
⭐︎自宅は金沢市内で沿岸から10キロ近く離れているが海抜は高くない。
⭐︎公的機関の情報ではなく個人の体感を記したものであり、曖昧な表現や報道機関の情報と誤差、矛盾が生じうることを留意してほしい。

─2024年1月2日

早朝4時45分頃。やや大きな揺れが5秒から10秒ほど。少し驚きながら目を覚ます。瞬間的に姉も目を覚ましたようで目が合う。揺れ始めてからすぐやや大きな衝撃があったため、姉に布団を被せるようにしながら様子を伺う。消防車だろうか。近くの方でかなり多くのサイレンが鳴っている。おさまって間もなく能登で震度4、加賀で震度3と速報があった。
昨日までなかった死者も2人とあった。

ほどなく母と父が無事に帰宅した。避難所が寒く我慢できなかったらしい。叔父は避難所近くの自宅に戻った。二人にはとにかくコタツとストーブで暖をとってもらい、食事も温かいものを簡単に済ませた。避難所ではテレビやラジオ等は利用できておらず、私たちが自宅のテレビで見ていたような映像は全く見ることができていなかった。写真を見せてもらったが、体育館に簡易の仕切りを設け、着の身着のまま防災毛布に包まれていたらしい。飲料水と非常食ビスケットは提供されていたが、どちらも手をつけていないようだった。

それぞれ最初の地震が起きた時のことを一通り話し合い、母は眠りについた。父はかなり疲れた表情だったが職場に戻り片付けや業務にあたるといって出かけていった。

6時40分頃、なおも時折地面から大きな衝撃があり家が軋む。朝方かなり冷え込んだため灯油ストーブをつけてはみたものの、怖くてつけたり消したりを繰り返す。ニュースを見ているとやはり火災が怖い。

7時頃、だいぶ空も明るくなってきた。夜暗い中で家が揺れることが非常に恐ろしかっただけに、日が昇ると少し心の余裕が出てくる。
報道の映像もかなり鮮明になってくる。輪島市を上空から写した映像を見ている。火災で広範囲が焼けていた。2年前の9月にちょうどツールド能登で宿泊した辺りだった。見覚えがある土地が煙と灰になってしまった。あの火災に現地住民の命が巻き込まれていないことを祈る。皆んな津波警報で避難していることを。
死者は5人に増えていた。

大晦日からもう丸2日風呂に入っていない。頭や体の所々にかゆみを感じる。水道もガスも依然問題なく使えるが、風呂場であの揺れが来ることを想像すると、どうも慄いてしまう。朝方まで眠れていた気になっていたが、やはり疲れが抜けていない。細かい震動に敏感になり、心のどこかで家を守らなければならないという責任感に追われていた。誰か一人はすぐ動くことができるようにしなければならない。そんな思いに駆られていたみたいだ。母親が起きているのでもう一度寝ることにした。

10時20分頃、比較的長くやや大きな揺れを感じて目を覚ました。10秒から15秒ほど揺れた。テレビをつけると能登で震度5、加賀で震度3だったが体感はやや大きく感じられた。
起きてみると頭痛が酷かった。死者も8人に増えていた。10時ごろに津波注意報も解除されたとの発表。
家族の中で設けていた外出するか否かの最終的なボーダーラインを撤廃する。
姉と母はガソリンスタンドまで灯油を買いに行っていた。長い車列ができていたらしい。祖父は山川環状線沿いの墓地を見に行った。
幸なのは日が昇ると空は晴れており、日が地面を明るく照らしていることだ。暖かく眩しい光は少なからず緊張を和らげ安心感を与えてくれた。救助活動、避難活動がより円滑に進むようになることを期待する。

11時15分頃。食欲があまりないので食事は飛ばし、自室の片付けを始めた。本棚に乱雑に積まれた学校関係の書類が散らばっている。昨日、イオンへ避難する時にギター2本とベース1本はケースに入れて床に寝かせておいた。クローゼットの扉は半開きになり、中に入れていたものが崩れかかっていた。床には埃がかなり落ちており、掃除が行き届いてないことを実感している。
今日はやや風が強いようだ。突風が吹くたびに家が風に煽られ軋んでいる。言わずもがな、それがあの地震を連想させいちいち油断できない。

午後1時前、体を動かすと食欲が湧いてきた。電子レンジで冷凍うどんを温め、お節の残りなどをつまもう。

掃除もひと段落し、現状復帰か。テレビやスマホでニュースを逐一確認しながら、昨日までの日常を送るよう努める。下着の着替えや常備薬等、避難するための準備は手の届くところに置いておく。

14時半ごろ。数時間ぶりにNHKニュースを見る。
輪島の火災現場にはカメラマンが足で近づいている映像を見た。能登町で地盤が沈んでいるであろう映像も確認。車が段差に乗り上げる形だが、本来そこにあった地面が変形したのだろう。依然、各地で火災の情報も絶えない。ここしばらくは体で感じる地震活動はない。県内の死亡者数は30人まで増加していた。

午後3時40分ごろのニュース。年末年始ということもあり、県外からたくさんの人が集中していた。タイミング悪くこの災害に直撃した人々も少なくないだろう。依然、能登空港、小松空港ともに機能がほぼ停止している。しかしながら北陸新幹線が全線回復し県外への流れが復活しただけではなく、外からの物資輸入も期待できるのではないだろうか。

午後4時45分ごろ。年明けのテストに向け勉強をぼちぼち。極時々、小さな震動を感じる。リラックスとまではいかないが緊張感は確実に緩んでいる。テレビでは依然ニュースが繰り返されており、県内の死亡者数も48人まで増えた。
全日制に通う方から、県教育委員会からの通達で4日から8日までの登校を禁止する旨が伝えられたそう。私が通う通信制も同じ措置が取られる模様。

午後5時15分ごろ、能登で震度5強。半日ぶりに家がガタガタ音を立ててやや大きく揺れた。だんだん動揺しなくなってはきているものの、油断してはならないと気を引き締める。
父親が帰宅した。職場も地震の被害を受けたため、当初予定していた正月の業務も中止せざるを得ないだろう。いずれにしても家族がそれぞれ近くにいたり身を寄せ合うことができるのはいいことだ。
2階の窓から見えた空は、赤から青とグラデーションに染まり束の間息を呑まされる。

5時半、3日ぶりに家族5人で夕飯を食べる。
一旦地震関連のニュースを見るのをやめ、録画した紅白歌合戦を見ることにした。久しぶりに何も気にせず笑った気がしたが、同時にこれまで起きていることがたったの一日の出来事だということに改めて気づく。
羽田空港でJAL機と海保機の追突事故があったとのニュース。時々揺れるリビングで胸がいっぱいになる。意図的にエンタメを見なければ、吐き出したいものも吐き出すことができなくなる。自分の気持ちは自分で保ってやらなければならない。

丸2日ぶりに風呂に入ることができた。温かい湯に浸かると自然と緊張がほぐれ長いため息を吐いた。すぐ隣の内灘町では断水も起きているらしく、こうして自宅の湯に浸かることができるのは幸いだと感じた。風呂に入っている時も、ドッドッという衝撃があり身構えた。今は、家族が風呂にいる時だけは大きな揺れがきませんように。

NHKはすでに羽田空港のニュースで持ちきり。地震の速報がないだけ幸いだが、新年早々嫌なトピックが続く。
明日のことはまだわからないから、これ以上不幸なニュースが続かないことを祈りたい。
明日は大雨が降るらしい。

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