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結局どうしたって引きこもり

僕は昔から自分の部屋にこもるのが好きだった。「現実が嫌で嫌で、逃げた先が自室だった」というわけではない。自室というのは、自分の好きな漫画やグッズに囲まれていて、ひとたびPCの電源を入れればWelcome to Underground、ダークウェブ()に足を踏み入れることができる。なので、現実逃避のための防空壕というよりかは、どちらかというと秘密基地のような感覚が強かった。当時のネットのアングラ感に加え、子どもゆえの視野の狭さが、自分だけの世界を構築するにあたり好都合だった。

我が強かったので、ヘソを曲げたり意地を張ったりして部屋に閉じこもることもあった。しかし、その時の僕はうっすらと周りからのアプローチを期待しているのだ。「俺くんは貴様らのせいで虫の居所が悪い!一体どうやって落とし前をつけてくれるんだね?」と、モラハラDV夫よろしく不機嫌アピールをして自室にこもり、家族なり友人らが「どしたん話聞こか?」と声をかけてくるのを待っていたんだ。もちろん、お声がかかったとて「待ってました!」と言わんばかりの表情は見せない。ふん、そこまで言うなら仕方ないな…なんて、本来は美少女かイケメンくらいにしか許されないツンデレぶりを発揮して機嫌を直す。

悲しいことに、大人になった今もそういう傾向は少し残っている。今の僕にとっては、職場やTwitterなどの大規模SNSが社会である。人と人とが複雑に絡み合ったり、多くの情報が行き来していたりしています。その結果、個人のステータスランクによる上下関係が生まれ、憎悪、怨嗟、嫉妬、憤怒、見栄や虚飾、さまざまな負のエネルギーが水の波紋のように広がる。「うわっ、社会だなあ…」何かをキッカケにそう感じた瞬間、僕はたいそう居心地が悪くなる。実は他人ってのは自分に対してあまり関心がない、ということに気づいてからは、不機嫌アピールをして誰かに構ってもらおうとするのはやめた。虚しいだけだから。しかしそれでも、引きこもるクセだけはなくならない。

人口爆発の著しいTwitterにて、僕のような弱小零細アカウントが吠えたところで誰にも何も響かない。そもそも、たった140字で何かを真面目に伝えようとするのが間違いなのだ。初心にかえり、ツイートはあくまで呟きであるべきで、課金までして140字を大幅に超えたお気持ち表明をするのは、本末転倒も甚だしい。

だから僕は、こうやってnoteに引きこもるようになった。Twitterでもたまに色々と投稿をしますが、基本的にnoteの投稿をアナウンスしたり好きなイラストをRTしたりするに終始している。同時接続者数が数十人〜100人程度の過疎配信を見ることも増えた。この場にいる数十人の人たちは、なんでわざわざこの配信を見ているんだろう?もっと大手の配信がいくらでもあるのに。そんな疑問は、同じくその配信を見ている自分にそのまま返ってくる。落ち着くんだ、狭い場所に少数の人間だけが集まっているという状態が。集まっている人の数が数字でしか分からない画面上であってもそれは同じ。そこには社会も上下関係も存在しない。

引きこもり、と言うとどうしてもネガティブなイメージがつきまとう。社会からの離脱、くらい前向きな表現でもいいのかもしれない。まあ、この世界の全員が離脱者になってしまったら社会が崩壊してしまうのだけど。

僕の日記などという辺境の地まで足を運んでくれている読者の方も、もしかすると社会の喧騒に疲れてしまっているのかもしれない。こんな過っ疎過疎の僻地だけれど、せっかくならゆっくりしていってほしい。引きこもるまで行かずとも、ときには社会から一時離脱することも必要さ。

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