大好きだった彼女は今
大好きだった彼女は今、べつの人のところにいる。
身体も、気持ちも、精神も、すべてが僕と彼女とで離れ離れ。
きっと、僕のことがつまらない人間に思えてきたのだろう。それがすれ違いというやつなんだろう。
初めのうちは、少しずつ離れていく彼女の影にしがみつくように、なんで、なんで、なんで、と問い続けた。誰に?彼女に?自分に?わからない。この世界に、かも。
時が経つと、彼女はどんどんと様変わりしていった。ちがう人の色に染まってゆく彼女を、僕はどういう目で見ていればいいのか分からなかった。見なくていいんだろう。見るべきではないのだろう。
大好きだったものが、自分の知らないところで、自分の意図せぬ形で変化していくのは、とても苦しい。変わらないで!思い直して!戻ってきて!そんな風に思っていたけれど、さすがにもう手遅れだという段階になると、やがて、諦めがつくようになった。
それどころか、すっかり彼女は僕にとってもつまらない人間になってしまった。風変わりで、それでいて自分の世界を持っていて、たまに頓珍漢で、そんな個性的な彼女が魅力的だった。きっと当時は、同じように珍妙な僕の存在に惹かれてくれていたのだろう。けれど、10年近い時を経て、二人の少年少女は大人になった。僕の心は今でもずっと子どものままだけど、彼女は違ったのでしょう。
普通で、平凡で、一般的で、ありふれた、どこにでもある、そんな当たり前の幸せを求めるようになったんだね。それも世の常なのだろう。昔神童今凡人。僕には、そのように感ぜられる。
気づいた時には、その辺りにいる同世代の女性と同じようになっていた。まるで擬態するカメレオンのように、見事にグループの輪に溶け込んでいる。お年寄りが若いアイドルグールを区別するのが難しいように、今の僕は、彼女とそれ以外の女性を差別化する客観的な術を持ち合わせていない。
「ずっと愛している」なんて「このビジネスは必ず儲かる」と同じくらいの眉唾物。
明けるから夜。止むから雨。そして、冷めないから愛なのだ。冷めてしまったなら、それは恋か、執着か、それに準ずる虚仮。
大好きだった、と言うと、じゃあ今は違うのか、と問われることでしょう。しかし思います。今の自分の感情を、必ずしも現在形で表す必要はないのではないかと。今の僕の彼女への気持ちは「大好きだった」と表現するのがもっとも適切なのです。今は好きじゃない、というわけではない。大好きだったなあと、ただただそう思うばかりだ。
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