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ゆるやかな自死のすヽめ

定期的にこの手のネガティブな話題を日記にしてしまう。自分の中にモヤモヤを溜め込んでおくより、こうして吐き出すことで気持ちが楽になるので、どうかご容赦願う。実は昨晩Xでスペースをやってみまして、そこで独り淡々と思いの丈を述べていました。誰からもリアクションがないなか一人で喋り続けることの難しさを思い知るとともに、深夜だったので口をついて出る言葉はどれも暗いものばかり。ついついマイナスな反芻思考に陥ってしまい、「気持ちを吐き出すことでスッキリする」という定説の真偽を疑うことになった。脳筋理論ですが、よほど「ネットを閉じてとっとと寝ろ」のほうが合理的な気さえします。また気が向いたらスペースで独白してみようと思うので、タイミングが合えば聴きにきてね。

スペースでも少し話したことなのですが「死にたい、自殺したい」という希死念慮について、いつもと違う角度から考えてみました。仕事も社会も自分自身も、ひいては人生、宇宙、この世そのものにも嫌気が差し、これからも毎日向き合っていかなければならない現実に絶望する。それが「死にたい」という気持ちに繋がると思うのですが、なかなか自ら命を絶つことは難しい。結局、そんな気持ちをなあなあに心の奥へ仕舞い込んで、ずるずると今日、明日を歩んでいくのです。うっすら鬱屈とした気分のままで。

対処法の一つとして、人間関係をシャットアウトするというのがある。人に会うのはもちろん、連絡をとったり、SNSに顔を出したりもせず、とにかく自分と他者との間に壁をつくって接触しないようにする。自分から他者にアプローチすることがないというのは、同時に他者からも認識されないということだ。人間は、血の通った肉体が地に足をつけ、そこに意識が存在していれば「生きている」と言えるのかもしれない。けれど、人間を社会的な動物と考えると、他者からいっさい認識されなくなった時点で、それは生きているとは言いがたい。地球上の80億人すべてが自分のことをまったく認知しないとすれば、それは死んでいるも同然だ。

つまり、人間関係を絶って一時的に他者から認識されない状態をつくることは、ゆるやかな自死と言えるのではないか。仮に「今日1日は誰とも関わらないぞ」と決めて実行すれば、1日限定で自分は死ぬことができる。自殺は成功すれば1回きりだ。取り返しがつかない。けれど、この1日限定の「お試し自殺」であれば誰でも気軽にできるでしょう。もし、このゆるやかな自死によって安寧を得られるのなら、その延長線上にある「本当の死」は救済と言えるのかもしれない。どうしようもなく思い詰めてしまった時は、ひとまずお試しで自殺してみるのもおすすめです。

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