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集えサブカル野郎ども

僕はnoteのフォロー数は0ですが、自分をフォローしてくれている人の記事をわりと読ませてもらってます。インターネットに溢れる有象無象たちには興味ないけども、自分をフォローしてくれている人には興味がある。もう何ヶ月も記事投稿をしていない人もいるし、そもそも読み専で1つも記事を書いていない人もいる。かと思えば、僕のように毎日更新している人もいる。なかには嫉妬してしまうほどに魅力的な文章を書く人もいて、なぜ僕のことをフォローしているのか邪推をしてしまう。

僕はなるべく多くの人に意味が伝わるよう、自分なりに丁寧な言葉選びをしているつもりです。それゆえ、読みやすいかもしれませんが、シンプルで味気ない文章になっていることでしょう。他人の文章を読み、それをひどく痛感した。読みやすい文章は読み飛ばしてしまうし、頭に残らない。まったく、とんだサブカル野郎どもが集まったものだ。なんて読みづらく、1文1文を咀嚼するのに時間がかかり、しかし噛めば噛むほど味のする文章を書きやがるんだ。僕ぁ嬉しいよ。こんな変態テキストを生成する奴らに囲まれて。というか、僕の日記に似たニオイを感じて寄ってきたのだと信じている。だとすれば、自分もその一員だと考えていいんだよな。

いやね、類友たちと馴れ合いをしたいわけじゃないんだ。最近じゃあサブカルって言葉がずいぶん安安と使われているじゃないか。ん、安安だと居酒屋じゃないか。ananは雑誌だし・・・そうか易々か。やれサブカル男子だ、サブカルファッションだと、もはやメインカルチャーに一歩踏み入れてしまっている。サブなんだから、もっと脇役らしくしろ!なんで僕たちがサブカルをこよなく愛しているのか。それは、学校や会社、ひいては社会ですみっこのほうに追いやられた自分と、文化芸術界におけるサブカルチャーの立ち位置にシンパシーを覚えたからだろ。僕たちもサブカルチャーも、所詮は社会に理解されないはぐれものなんだ。文化人になれなかった下手の横好きの成れの果て。でも、僕たちは文化人になれなかったんじゃない、ならなかったんだと心のどこかで思っている。同じサブカル人間を見つけた時も、同志と巡り会えた嬉しさの裏に「でも自分の方がこのコンテンツへの理解度は高いんだよな」と譲らぬプライドがある。我々は仲間じゃない、互いにシノギを削り合う間柄なのだ。

万人に理解される文章を書かなくたっていい。理論上、そんな文章はつくれない。もっとトガればいい、痛くていい。もし強烈な文章を目の当たりにしたときに嫌悪感を覚えてしまうのであれば、おめでとう一般人試験合格だ。もうサブカルスラム街の門戸を叩く必要はない。だから、せめてこの混沌とした地にいる僕たちは最大限に暴れたらいい、奇を衒えばいい。僕たちを否定するような健常者は周りにいないのだから。オカしんだよ、ほら、殴りかかってこい!殴り返してやるから!お前の綴る文、イカれてるよ、最恐にクールだ、イライラする。そんな苛立ちすら愛おしい。どうだ恥ずかしいか?こんなポエミーな文字列を見せられて。だったらお前の負けだ!条件反射で「共感性羞恥」なんて今まで知りもしなかった言葉を得意げに使いやがって。その言葉が使われているシーンを見かけるたびに共感性羞恥を覚える。

強い言葉を使ったせいで弱く見えてしまったね。まあ、僕の日記を読んでいるような好事家にこんな注釈は無粋だろうけども、嬉しいんだよ僕は。ヘンテコな君たちにフォローをされて。就職ってやつをすると、なかなかそういう人間には出会えない。仮にいたとしても、みな会社では素を出さないから気付けないんだ。こんな息苦しくなったインターネットでも、全力で己を表現しようとしているお前たちが大好きだよ。

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