ウルトラマンの思い出


 私が幼少期を過ごした90年代前半は、ある種の『特撮空白期』にあった様に思う。
 勿論、『スーパー戦隊』シリーズや『メタルヒーロー』シリーズは健在で、日本特撮3本柱の1つ『ゴジラ』シリーズは、その年の映画のテレビ放送が、夏の風物詩となっていた時代である。私も当時、自分では覚えていないものの、親曰く『カクレンジャー』のおもちゃなどに目を輝かせていたそうだし、『重甲ビーファイター』を格好いいと思っていた記憶は、うっすらと残っている。

 ただ、日本特撮3本柱の残る2つ――『ウルトラマン』シリーズと『仮面ライダー』シリーズが、共に沈黙期に入っていたのは事実だ。
 実際には、ウルトラマンは当時、グレートとパワードで海外路線を模索。仮面ライダーも、いわゆるネオライダー三部作で、Vシネマ路線の作品を制作しており、決して途絶えていた訳ではない。しかし、テレビの毎週放送からは縁が無くなっており、当時の我々にとって『過去のヒーロー』であった事は、否定しようがないだろう。

 当然、その頃の私がこれらと触れ合うには、当時に出ていた書籍やゲームなど、間接的な形にならざるを得なかったのだが、私の周りには何故かウルトラマン関連のグッズが充実していた。
 あくまで一般人の範囲だが、父がウルトラマン好きだったのが大きいのだろう。ウルトラ怪獣図鑑などを何となしに読み、ゲームでウルトラマンをいくつか遊んでいた……そんな中で、ウルトラマンと言う存在は、幼少の私の中でドンドンと大きくなっていった。

 掲げられるベータカプセル。放たれるフラッシュビーム。そして現れる光の巨人。必殺のスペシウム光線と八つ裂き光輪は、ヒーローならではの特権で、正に彼らが超人である事の証だった。人知を超えたヒーローとして、自分の生まれる30年近くも前のウルトラマンに、本気で憧れを抱いたのだ。

 ウルトラマンの魅力は、勿論幼心に憧れの対象となった『超人的な能力』だけではない。敵対者である『ウルトラ怪獣』達の魅力、そして単なるヒーローものに留まらない『SFドラマとセンスオブワンダーな作風』にも表れている。

 日本人なら、大抵は『バルタン星人』と言えばピンと来るだろう。ウルトラマンは別として、日本発の宇宙人における最高傑作である事に、異論はないはずだ。夜に不気味に佇み、ハサミ型の腕から光弾を発射して攻撃し、分身能力で幻惑、そしてあの「フォッフォッフォッフォ」の声を闇に轟かすバルタン星人は、ある意味で本格的に『SF』を感じた初めての瞬間だったように思う。
 或いは一歩踏み込んで『レッドキング』『ゴモラ』『ジャミラ』『ゼットン』あたりも、すぐにイメージが浮かぶ、と言う人も多いのではないだろうか?

 怪獣王ゴジラは正に別格の存在だが、ウルトラマンの『シリーズ』と言う枠組みの中には、これだけの魅力ある、人気の怪獣たちが溢れている。それぞれが力を尽くしてウルトラマンと戦う姿、そしてそこに至るドラマには、大きな存在感と、そして単なるヴィランに収まらない感情が籠っている。

 ハードで考えさせられるSFドラマとしての『故郷は地球』。人類の身勝手さに見捨てられ、復讐の為に人である事を失いながら帰ってきたジャミラの怒りと、悲痛な断末魔と共に万国旗を薙ぎ払い朽ちていくジャミラの悲しみは、当時映像としては知らなくても、知識としては知っていた。そして子供心にジャミラをただの怪獣ではなく『かわいそうな怪獣』と思ったものだった。
 シリーズには、こうした風刺性と寓話性の富んだエピソードが多い。ウーの『まぼろしの雪山』、ギエロン星獣の『超兵器R1号』、地球先住民族の『ノンマルトの使者』、メイツ星人の『怪獣遣いと少年』、ツチケラの『悲しみの沼』……単純なヒーローと怪獣に留まらず、時々に子供の、そして大人でさえも心を刺してくる。
 勝っておしまい、で済まさないヒーローと言うものを描いているのも、日本におけるヒーローの代名詞としては、挑戦的なものである。

「犠牲者はいつもこうだ。文句だけは美しいけれど……」
「それは、血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ……」
「日本人は美しい花を作る手を持ちながら、一旦その手に刃を握ると、どんな残忍極まりない行為をすることか」
「人が、人を許さない限り、争いは無くならないんだ……」
「人間は、人間が過去に犯した過ちを、自分達の痛みとして背負っていかない限り、本当に変わったりは出来ないんじゃないか?」
「地球は……宇宙は……人類を必要としているのかな……」

 不意に挟まれるこうした台詞が、胸の中に刺さったという人も多いだろう。

 一方で、センスオブワンダーなストーリーも、ウルトラマンシリーズの重要な魅力だ。そもそも、最初は『ウルトラQ』として、怪獣をSFホラー、そして正にセンスオブワンダーのSFとして扱ったのが始まりなのだから、ある意味で当然の帰結と言える。
 後の、小学生の時分にウルトラマンガイアの『遠い街、ウクバール』を見た時、ヒーロー物に留まらないそうした側面を見せつけられた。
 語られる夢の世界、壊れた電話機から聞こえてくる風の音、そして現実と幻想が重なり合い、幻の街ウクバールと守護怪獣ルクーが姿を現すとき、1人の男が魂の故郷に帰っていく……何せ昔の事で、今となっては記憶が曖昧だが、確かにこの不思議な感覚にやられていたのはよく覚えている。
 ヒーローたるウルトラマンガイアの戦いがまともに見れなかった事に、当時の子供たちは不満を募らせたのではないか、と言う意見を見かけたが、少なくとも当時の私は、そんな事気にならないくらいに「不思議で面白かった」と思ったのだ。

 同じく、ウルトラマンエックスのホオリンガも、恐らく今の子供たちに、そうした心地を与えてくれたのではないだろうか?
 山村に突然現れ、何するでもなく鎮座するホオリンガ。この世界では、邪悪なものではない怪獣とは共存を目指す防衛チームが描かれており、彼らは怪獣を制御しつつ、野生生物として尊重しようとするのだが、全ては無駄なお節介だった。
 ホオリンガは、先祖代々この山村の土地で眠りにつき、山となる。連なる山々はホオリンガの父であり、祖父であり、ホオリンガは家族と共に眠りにつきたかっただけだった。そしてホオリンガが山と化した土地は、自然の恵みに満ちていく。
 それを知っていた少女は、ホオリンガと心を通わせ、最終的にホオリンガは望みどおりに眠りにつき、山と化していくのだった……。


 ただ、ここで1つ悲しい話をしてしまうと、長寿シリーズの宿命としてか、ファン層の断裂とマニア化に悩まされてもいる現実がある。特に、近年のウルトラマンたちが、何かしらの形で過去のウルトラマンたちに依存しているのが、槍玉にあげられやすい。
 おもちゃの展開の為、と言ってしまえばそれまでなのだが、単純に必殺技を使うだけで、過去の英雄の力を借りる(関連グッズを作るため)と言うのは、確かに見ていて複雑な心境になるのは事実だ。
 ウルトラマンに複数回の強化形態を用意したり、時々によって設定が、過去作からコロコロ変わるのも、見ていて気持ちの良いものではない。

 だが、子供たちにとっては、そんな事は関係ないのだ。

 敵にわざわざコンディションを知らせている、などと突っ込まれるカラータイマーの存在だが、子供の頃を思い出せば、アレが鳴り始めると、それだけでハラハラしだしていたのが事実だ。
 最終的に強化形態においしい所を持っていかれるとしても、子供心に覚えきれない多彩な能力を持っている事、それだけでヒーローとしての憧れは強くなるのだ。

 昔には昔のヒーローがいて、今には今のヒーローがいる。

 『ポケットモンスター』に影響を与えた、初代ウルトラマンとウルトラセブン。『新世紀エヴァンゲリオン』に影響を与えた、ウルトラセブンと帰ってきたウルトラマン。そして『魔法少女まどか☆マギカ』に影響を与えた、ウルトラマンネクサス。それらはそれらで偉大であり、今のウルトラマンも、彼らは彼らでやはり、偉大なのだ。

 ウルトラマンメビウスに客演したウルトラマン80を、当時の教え子たちが評していた通り「俺達のウルトラマン」でありさえすれば、それで良いのだ。

 ウルトラマンエックスのラスボス『虚空怪獣グリーザ』のアクションとCG技術に、大人でありながら思わず戦慄させられた私だから思う。今の時代の子供たちも、今の時代なりのベータカプセルを心に掲げ、フラッシュビームに心を焦がし、光の巨人の活躍に憧れを抱いているに、違いないのだ。

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