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筒井清忠(2018)『戦前日本のポピュリズム』感想

明治末期から昭和にかけての戦前日本において、今とはレベルは違うにせよ、民主主義は成長しつつあった。その蹉跌から今に通じる学びを得ようという、すごく良い本。とても楽しみながら読めた。以下、読んだ雑感を書いておく

おすすめできる人:「歴史に学ぶ」というポリシーの人、概念を精緻に理解したいという人


戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道 

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ポピュリズムは民主主義のダークサイド

公共政策を学び、ポリシーディベートをかじった身として、私は、民主主義の本質は政策立案と選択であると思っていた。対人論法など下の下だと思っていた。しかし、この感覚は人にあまり伝わらないし、自分も政策よりゴシップに突き動かされそうなときがある。
実はこうした問題は、明治末期から起きていた。政策よりもゴシップや感情的な批判求める感覚は例外的事象でなく、民主主義に内在する問題なのだ。「政策を重視するのが正義」という感覚は、当たり前なものだと思ってはいけない。人間とは感情に突き動かされる生き物なのだ。

国体とか天皇制とかの罪

政治への感情的な批判は、何からの正当な根拠を伴っている。戦前日本の場合厄介なのは、こうした根拠が「国体」や天皇制に依拠していることだ。「国体」という概念は今ひとつ理解できないがおそらく、厳密に定義されず、一方で批判が許されない、錦の御旗的な存在なのだろう。今風に言えばば、「天皇が統べる日本がもつ、誇るべき伝統ないし文化」といったところであろうか。
戦前日本においては、この国体をもとに批判されると、非常に反論をしづらい。天皇のもつ威厳は現代とは比べ物にならず、批判の対象にはできないからだ。しかもそこに、特に「弱者たる大衆」という概念と結びつくとなおさらだ。
昭和期、戦前日本の民主勢力は、大衆・メディアから、国体をもとに批判され、譲歩を余儀なくされる。さらには、日本の政府全体ががんじがらめになり、身動きが取れなくなり、誰もが知るあの破滅へと突き進む。国体とはつくづく罪作りな概念だと思う。現代日本において国体と似た機能を果たしている概念は何なのだろうか。

民主主義はめんどくさいが「銀の弾丸」はない

戦前の民主主義の失敗は、民主主義のデメリットに疲れたあまり、民主主義の「外部機能」に過度な期待をしてしまったことにある。
民主的な話し合いには、皆の合意点を探る高度に知的な活動という側面と、それを実行するための生臭い権力闘争という側面があり、さらにそれが行き過ぎて腐敗した政治家を産むリスクもある。
しかし昭和期の世論は、そのリスクに疲れたあまり、「清廉潔白な理想像をすぐ実現してくれそうな銀の弾丸がある。それは、天皇制とか司法とか若手の軍人だ」と短絡してしまった。
そして、その世論の支持のもとで成立した近衛政権は、世論と対峙する度胸も持たず、一方で軍部や官僚のコントロールもできず、単なる風見鶏として日本を破滅に導いた。戦前日本のファシズムとその破滅は、大衆の支持の帰結いう側面もあった。

背景にあるのは社会の分断

政治の腐敗に社会が不寛容になるのは、それだけ貧困が増え、「特権階級」への憎悪が強くなっているという面がある。「インテリ対大衆」「都市の比較的裕福な層 対 農村or労働者」という構図はいつの時代にもあると思うが、特に社会の分断が進むと、その構図に基づく対立が激化するのではないだろうか。
本書の中ではあまり触れていないが、明治から昭和期は、日本の工業化が進み、労働者と資本家が生まれた時代だ。また昭和恐慌で大変な貧困が生まれた時代でもある。こうした時代において、腐敗した特権階級はとても分かりやすい批判対象だ。
あろうことか、社会の木鐸たるメディアがその世論のお先棒を無反省にかつぎ、せっかく育ちつつあった政党政治を壊し、軍部や司法ばかりを持ち上げてしまった。その不見識は批判されて然るべきであり、その批判は今でも通用すると思う。

この本を読み、ポピュリズムという概念への理解が深まった。もともと、このポピュリズムは「民主主義が堕落した形態」であり、避けるべき事態だと理解していた。しかしこの本の論拠にのっとるなら、いわば民主主義に内在する限界・病理というべきであり、我々はうまくいなし付き合うすべを身に着けるべき、ということなのだろう。行き過ぎると民主主義は機能しなくアなり、僕が好きな銀河英雄伝説の「民主主義の中から独裁は生まれた」「腐敗した民主制と綺麗な立憲帝政のどちらがマシか」といった命題につながるのだろう。そーいえば最近の米帝の大統領選も…(以下略



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