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「ことばをあつかう」意識の中で

ここ最近、言葉に違和感を覚えることが多い。「募集ではなく、募っている」もそうだし、「ガラスの天井」も「デタラメ」発言もそうだ。このご時世で飛び交う「応援」の言葉も腑に落ちない。

海の向こうの国のリーダーが就任する式典で、とある詩人がこう朗読したらしい。これはまさしく、いま求められている言葉そのものだ。

We’ve learned that quiet isn’t always peace, and the norms and notions of what " just is " isn’t always justice.

もちろん、国を単純に比較することはできない。詩の朗読自体、特定の政党出身の4人の式典でしか採用されていない。いまこの言葉が必要とされたのも、割れた議事堂のガラスのように尖った言葉が飛び交ってきたことの反動にすぎない。だから、「言葉は使い手によって花束にもなるし刃物にもなる」といった、そういう議論の範疇ではわざわざ「海の向こう」と言ってまで比較する意味はない。海を隔てていようと、限りなく同じ平面にしかいない。

だが、もっと手前にある「言葉を扱う」意識そのものがあるかどうかで見ればどうだろう。「言葉への反動としての言葉」が生まれるだけ、そこには歴然とした差がある。言葉は動きやすいし、限界がある。表したくないことを表してしまうし、表せないことも多い。だから、自分の関与を見失いやすい。関与を見失うということは、加害性を見失う以前の問題である。言葉を扱っている意識がないから、言葉を邪険に扱う為政者がいても、何も思わないし、憤らない。

それでも言葉は強く、そしてどんな者にも開かれている。"the devil can cite Scripture for his purpose"とは言い得て妙である。「何も思わない」ことにつけこんだ者が意識的に言葉を攻撃のために使った時、言葉はかつてないほどの暴力性を持つ。その意味において、第三の水晶の夜はこの列島で起こっているのかもしれない。

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