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「強くなった数だけ見失うだろう」

この記事はもともと数週間かけて書いて大晦日に「2020年総括(仮)」で出す予定でしたが、一夜書いたら思いのほか文字数がすごいことになったのでこれで公開します。原題が(仮)なのは色々ありすぎて総括できないと思っているからです。

結構弱音が出るので精神的に大丈夫な人だけ読んでください。

「できなくなったこと」と向き合う

年が明けるまでに、取り敢えず「今年できるはずだったこと」を供養したいところです。今年めっちゃ聴いた曲の「痛みだけは忘れたくないんだ」ってフレーズを思い出しながら。

もちろん行事とかオリンピックもそうなんですが、そういえば課題研究の打ち上げもできなかったなとか、バンドリのライブもダメになったよなとか、そういう「できなかったことすら忘れていること」みたいなのが出てきて怖いですね。知らず知らずの間にどんどん不可能を受け入れて色んなことに対する期待値下がっている感じがして。よりによってその時期がこう、自分の可能性にある程度折り合いをつけるモラトリアム期と重なっているから余計にね、めちゃくちゃ一気に諦めている感じが拭えなくて。

ただこれ難しいのがコロナのせいでできなくなったのかがもう分からないぐらいこの状況が続いちゃってるというのがあって、じゃあコロナが流行しなかったら僕は体調を崩さず夏休みに寝込まずしっかり勉強に向き合えて秋に入院することを避けられてたのかとか、それはもう分からんのですよ。だからこう、これだけの痛みがあるんです、コロナのせいで!ってあんまり自分の中で決め込んでしまうのもどうなんだろうなーと思ったりはします。ウイルスに気を遣っているような気がして微妙な気分にはなりますが。

この状況にあって

単にコロナで何かができなくなる云々に限らず色々あったので、痛みを知らないと他人の痛みには気づけない、みたいな言説に対する信頼が若干回復した年でもありました(まあ文化芸術は痛みを知らずとも痛みに気づく人間にさせてくれる効果を持ってると思うんですけどね)。社会情勢的にね、やっぱり自己責任論が強いなーと思ったりもしたので。

それで、この期間を経てめっちゃ聴くようになったのが堂本剛の楽曲で。宗教チックで敬遠してたんですが、すごく良いです。語彙力がなくてごめんなさい。意味づけをしたいわけではないんですが、やっぱり彼はパニック障害とか突発性難聴とか経ていて、だから何か違うのかもしれない…と思ったりはします。

例えばこの「Everybody say love」って曲とか。

Everybody say love 君を責める 僕は終わりさ
Everybody say love 僕を責める 君は終わりさ

限られた鼓動を 余さず笑って生きてたい
見失うばっかね 僕らいつも愛の意味を
泣いているいま たったこのいまも
誰かがまた 傷つき泣いている
耐えているいま たったこのいまも
愛を信じて 待っている

なんか、2020年はもうすごく世間が殺伐としていて、それ自体がすごく苦しかったなーと思います。あらゆる壁を超えて何かを分かち合う場としてのオリンピックがあるはずだった年だから余計に感じましたね。僕自身も、「連邦政府は芸術支援を優先順位リストの一番上に置いている」って言ったドイツとかと比較して日本の政権の文化芸術軽視には相当キレたりしていたんですが、もうなんかそれもこの状況のせいで増幅されているんだろうなーと思うと、批判していることすら嫌になってくるというか、もう訳が分からない感情になったりもしたわけです。これは自分の家庭内で重症化するかも…という恐れのある人がいたりしたので必要以上に感じているだけなんでしょうが、周りの発言が微妙に殺気立っているなーと感じた時とかも、その人も恐れて傷ついてこうなっているんだろうなと思うと、なんかこう頑なにその発言を拒めない、というかむしろそういう人に対しても同情してしまうような感じはありました。

あと、一応これでも兄なので、広く子どもたちに対してもやっぱり色々思ったりはしました。オリンピックで未来への希望を抱くはずだったのに、こんなみっともない大人たちの姿を見せて、本当に申し訳ないというか、なんかそういう気分です。1月に見たジャニーの舞台にあった「大人はこれから先の歴史を作ることはできない。だが、私たちが作り上げた真実は決して消え去ることはない。これからの歴史は、未来の宝である子どもたちに譲ろう。すべての大人が胸を張り、未来を担う子どもたちに堂々と語れるような、そんな世界を目指す」ってセリフと完全に逆行していて。

エッセンシャルワーカーの人たちに対する差別とかもね、もうなんかまだそんなところで止まってんの人間…って悲しくなりますよね。「そういう人たちと同じ種なんだ」っていう悲しみというより、「人間という種にはそんな攻撃性が備わっちゃってるんだ(自分もそんな部分を持っているんだろうな)」っていう悲しみ。

堂本剛もラジオでこんなことを言ってて考えがドンピシャでビビりました。

こういう時って本当に“人であることに悲しくなる”瞬間もすごくあるっていうか、なんで人ってこうなんだろう、みたいな。本当にそうやって思っているから言っていることが何でダメなのっていう。そういう風に純粋な気持ちでこういう問題に対して向き合うことへの嫉妬なのか何なのか分からないけど。そう思わないならそう思わないって言えばいいじゃないっていう、なんか思ったりするんですよね。

石牟礼道子も、「苦海浄土」の中で「この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった」って言ってて、ああこれもドンピシャだなーと思いました。

純粋に、最初っから誰かを責めようとして生まれている訳じゃないのになんで分かり合えないんだろうなーって思いません?

たぶん私はいわゆる「HSP」ってやつで、だから文化芸術好きだしデザインに関心があるんだろうなと思うんですが、やっぱりその分こういうとき傷つきすぎじゃないか?と感じたりもするわけです。なんか偉そうな言い方だけど。たぶん上に挙げた2人もこの気質があるような気がします。なんか、アンケートで「母親になってほしい」に挙げてくれる人がいたのがビックリしたんですが、この2人も「母」性があるとか言われてるのでなんかそうなのかもしれないとか思ったりはしま………せんよ。

ググると出てくるんですがこのHSPというのは厄介で、相手に共感しすぎて(例えば電車のドアによく貼ってある巻き込み注意のステッカーとかで泣いているキャラクターの絵が描いてあったりするとこっちまで辛くなるレベル)私がちょっと疲れてしまううえに、その疲れのせいで不用意に相手を傷つけているなという気持ちも(共感性のせいで)また強く出すぎるあまり、意図的に人と距離を置くようなことも起きるわけです。

なので、特にこんな風に時代が荒れていると、誰かが何かを恐れたり傷ついたりしていることに異様に共感して入り込んでしまう(どちらかというと入り込んできてしまう、の方が正しいかも)わけです。境界線が曖昧というか。

でも、共感そのものは無理しているわけではなく紛れもなく本心で、別に人付き合いが嫌いなわけではなく、ごく普通に過ごしているんだけど、なんか分からんないけど気が付いたら疲れている、というだけのことなので。嫌いどころかめちゃくちゃ気が合う人と喋っててもそうなるし、友だちに限らず親と話しているときもそうです。だから別に相手が僕に気を遣って話してもらう必要とかは全くなくて、むしろ気を遣っているなとすぐ察知しちゃって余計にヤバくなります(めちゃくちゃ面倒で申し訳ないよね)。

ショーマストゴーオン

急に話変わりますね。

高3の文化祭を過ごす場所を決めたのは2019年11月10日なんですが、この判断には誰がいるとか、構想してたことの目的がどうとか、やたらめったら色んな理由があって、そのひとつが「ジャニーが亡くなった年だったから」なんですよね。

なぜかというと、ジャニーのよく言ってたショーマストゴーオンってやつを、それこそ「Endless SHOCK」の「ひとつ苦しめば、ひとつ表現が見つかる。ひとつ傷つけば、また、ひとつ表現がつくれる。ボロボロになる、それだけ輝けるんだぞ!」ってセリフみたいな感じで「辛い時こそ芸事に繋げていく」ことであるって解釈で見ているが故に、「辛い時じゃないと出来ない選択」みたいなものをしてそのうえで何かを掴みたかったからで(まあショーマストゴーオンって言葉自体が負荷になってた部分もあるかもしれないですけどね)。

ここでは居場所の選択を挙げましたが、僕にとって芸事といえばデザインを指していて(本当はアートじゃないからそういう思想を入れるべきではないんだけどね)、今年のデザインもそういう(辛い時だからできる選択をする)意図でやっていますし、だから暗号じみたことばかりしています。

逆に言えば、芸事たるデザインだから辛い状況でもこなせたし、それ以外のことは今もこなせる状態にないとぼんやり感じています。そこもショーマストゴーオンなのであんまり認めたくはないけどね。諸々認知のズレも相当に痛感しているので年が明けたらそれを治していくというか、そういうことを考えなきゃいけないのかなーとは思っています。ワクチンが入ってもこの状況がすぐ収束してくれる訳じゃないだろうし。とか言いつつも、やっぱり「普通」に回帰しようとする作業って虚しいだろうから、全く違うどこかに行きたいんですけれども、それを探すにも力がいるわけで…。

ちょっとデザインに話戻しますね。もうこれ今だから言えることなんですが、テーマを書いたメインフォントって実は僕が引っ張り出してきたものではなくて、もともと残っていた資料にあったフォントを使っているんですよね。もし「その時」が訪れたときに、交代ではなく分掌のバランスを変えただけという意図が伝わるように。めちゃくちゃ文脈を読んで大阪万博から引っ張ったのも、広場名との連動性云々という理念を持ったたままで進めた、という意図が伝わるように。

こうやって書くと恩着せがましいんですが、別に感謝してほしいわけでは全くなく、単なる自己満足で、そうでもしないと自分が本来果たすべき責任を果たしていない事に対して納得がいかないというか、そういう部分があったからこうしました。我ながら勝手な人間だなーと思います。もし読んでいたら本当にごめん。

ちょっと話を戻すと、結果論として、「ジャニーが亡くなった以後」に立てたのかというと、たぶん立てたんだと思います。自分が写らずに意匠だけが写っている写真とかを見ると、自分が育てた何かのように見えたりもしたので。

でも、じゃあ他の選んだ理由に応じた結果が得られたのかと言われると、多分そうじゃないと思います。なんか言い切っちゃうのはアレかもしれないですが、やっぱり寂しさはすごいですよね。さっき書いた性分もあって距離を置く部分はかなりありましたし(デザインしてるときは特に感傷的になるので)。でも他の方法があったんだろうかと言われると分かりません。じゃあ終わった後にアクションをとればいいじゃんという話ではあるんですが、そういう勇気もない。迷宮入りです。

立たせてもらっている場所

自分が立った場所というのは、すごく名誉ある場所であることは重々承知しているし、感謝「しなければならない」以前に感謝「したい」場所に立たせてもらったと思っています。

ただ、正直心の底で数年の単位のレベルで適材だという感覚があった審査をやってた時ほどの自信がなかったので、どうも不安な状態が続きました。やはり、絶対に超えられない意匠が想定されていたことは明白だし、超えられないということは自分が一番わかっていると思っていたので。それに、僕が居なかったらきっと誰かがその場所には立っていたんだと思っています。それは今でも変わりません(こう書くと後ろ向きに聞こえるかもしれませんが、それでも最後やったのは私なので…という気持ちもあるので前は向けています)。無駄に頑なですね。

また、「貴重な経験が出来て良かった」と言ってよいのだろうか、という気持ちもずっとありました。やっぱり避けるべきであったし、避けられたと思っているし。

とはいえ、それでもやはり立たせてもらっていることは感謝してもしきれないことだし、むしろ身に余るようなことだと思う気持ちも同時にあり、なんかよく分からないなーと思っていたらあっという間に時間が経ってしまいました。

「応援」に対する違和感、に対する違和感

ジャニーズのリリースした「smile」があんまり僕の趣向と合わなかったので、コロナ渦のチャリティーソングとしては「きぼうのあしおと」をよく聴いていました。志尊淳はすげぇ。

ただ、結構聴き込んだ自覚はあるんですが、どうも1番の歌詞がちょっと引っ掛かって。

当たり前が当たり前じゃないと不安になるね
君だけじゃない 僕もみんなも同じさ

応援歌って、よく「君だけじゃない!みんな一緒に乗り越えよう!」みたいに歌詞が入っているんですが、これって正直応援じゃないだろって思ったりしません?いや辛いのは自分だよ!ってなりません?

でもみんなそれぞれが苦しんでいることは分かっているので、なんかあんまり「僕だけがつらいんです!」って思うのもどうなんだろうなーと考えたりしてすごく面倒(なんか上のほうで同じようなこと書いた気がする)。

そもそもなんで「応援」についてとやかく言っているのかって、前提として、「2020」というのは弱さへの理解が示される年だと思っていたんですよ。去年の末に「カイト」でこの内容が歌われたからです。もちろんこの歌詞はジェンダーロール云々もそうなんですが、ここでは応援に着目しますね。

母は言った「泣かないで」と
父は言った「逃げていい」と
その度にやまない夢と
空の青さを知っていく

先んじて新しい地図も2017年のスタート時にこんなメッセージを出していました。まあこれはジャニーズ事務所を念頭に置いたやつだとは思いますが。

逃げよう。自分を縛り付けるものから。

応援というものが前面に出てくるオリンピックの年だからこそ、従来の「応援」を改めて、「逃げる」ことにも理解をくれると、そんな期待がありました。「カイト」はNHK2020テーマ曲だしね。

でも、蓋を開けてみたらオリンピックは消え去り、結局は「強さ」を求めるような応援歌が出回るばかりで…。このツイートにも強く共感しました。

最近だとカロリーメイトのCMにもちょっと悲しくなりましたね。

教師役が投げかける言葉がこれです。

うまくいかない時に、それでも続ける努力を、底力って言うんだよ。

こういうとき、想定していた2020年の文脈では、「うまくいく時もうまくいかない時も君の味方だから」みたいな感じになると思い込んでいたので、あーやっぱり「それでも続ける」ことができなくなった人は無視されるんだーと思ってなんか嫌でしたね。

特に今年の受験なんて、重症化の恐れがある基礎疾患がなくて、自粛期間中学習環境があった恵まれた経済事情の家に生まれた子だけがチャレンジできるようなもので、そんな状況でこのメッセージを打ち出すのは正直ヤバいなと…。そもそも受験自体が「強さ」を求めるもので、想定されていた2020年の文脈ですらも捻じ曲げてしまうような存在ではあるので、仕方ないとも言えますが。なんだかなぁ。

でも一方で良いと思ったCMもあって。キウイブラザーズです。今これを書くときに動画見たら急に泣けてきました。まさに弱さに寄り添った応援ですよね。

凛々しく生きるということ

この関連でいうと、特別班ガイドに載せた文章に「りりしく繊細な」って言葉が入っていて、当初これは単に縦読みで「今こそ祭り」と読ませるために入れただけだったんですが、今になってこの並びはすごく大事だなーと思ってきたんです。

11月に入ってからセーラームーンの曲「乙女のポリシー」を聴くことがあり、こんな歌詞を目にしました。

コワイものなんかないよね
ときめく方がいいよね
大きな夢があるよね
だからピッと凛々しく
もっと大変なこと いっぱい待ち受けてる
きっとそれは華麗にはばたくチャンス

そもそもこれを聴いたのは、応援している永瀬廉がギャルっぽいという説が近頃永瀬担界隈で流れだして、これ永瀬廉っぽくない?ってツイートを見かけたからなんですが。

結構ドンピシャでこのスタンスに共感して、「弱さ」と「凛々しさ」は共存するなって思ったんです(もしかして自分は永瀬廉のギャル性を推してたのか?とか思ったりもしましたが)。

弱くても凛々しくいられさえすれば、痛みに共感する力を失わないままに生きていけるじゃんって腑に落ちたんですよね。

また堂本剛の曲の歌詞を引用するとこれです(自分の感情全部堂本剛の歌詞で説明できる気がしてきた)。

強くなる必要なんかないさ
今の自分を愛して歩けよ
強くなった数だけ見失うだろう
あいつの痛みも 君の強がりも
曇るだろう?

なんでこんなに弱さを重んじるかって、元々弟がいわゆる「普通学級」とやらに通っていないからというのもあるし、自分自身がHSPっぽいし色々多数派じゃないなと思うことが多いからというのもあるんですが、やっぱり人間だれしも最初はそんな力があると思っているので、その力を失くさないでいたいという感じで…。

おわりに:めっちゃ歌詞とか台詞引用してないか?

急に終わりにきましたが、それにしてもドン引きするぐらいめっちゃ引用するよね。SMAPの曲の「好きな映画や好きな音楽とかに影響されすぎて今を見失うなよ」って歌詞が身に沁みます。が、これもまた引用しているので最悪です。

しかしこれはアンテナ張り続けてることの表れでもあるんですが(イキり…)。

なんかこんな風に、自分の発信は雑な割に、耳にした・目にした言葉はすごくしっかり覚えていますね。7月に顧問が言ってた「この例が他校の生徒にとっても希望になり得る」みたいな言葉もはっきり覚えているし。それが今年の疲れの原因なのかなーとも思います。

まあ、ここまで泣く年はもうないと思う(これ去年もそう捉えてたけどね…)ので、一年の最後ぐらい、がんばったね、よく生きたね、と自分に言ってやりたいですねって感じです。

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