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大戦末期の翳:矢代秋雄《ソナチネ》

矢代秋雄《ピアノのためのソナチネ》(1945)

「ラヴェルの《ソナチネ》に主題が似ている」事ばかりが取沙汰されがちな矢代秋雄 (1929-76) の〝処女作〟だが、「左手のオスティナートの上で自由な曲線を描く右手の旋律」という発想は、リズムの工夫を好んだ作曲者の嗜好がすでに顕れているといえる。また第1楽章第2主題や第3楽章には、作曲時の先端であったヒンデミットの音楽の趣も感じられたりもする(本作に続く《24の前奏曲》には《ルドゥス・トナリス》を思わせるような実験性もみられる)。矢代は本作を生前の〝主要作品〟リストに挙げていなかったが、典雅な整いをもつこの佳品は、近年良質な演奏の録音も増えてきて嬉しく思う。

なお、本作の第1稿完成の日付が「昭和20年3月10日」とある事に心をとどめたい(赤井裕美演奏CDの解説より、決定稿完成は同年5月12日)。言うまでもなくその日、東京で何があったか。翌月には東京音楽学校に進学する少年・矢代秋雄が、自分の作曲家としての行く末と国家の存亡にどれだけの不安を抱いた事だろうか。

八つのときから作曲家を志ながら交響曲を一つも書かずに死ぬとは……というわけで、豆カスやイモのつるなどを食べながら、勤労動員の余暇に五線紙に向かっていた。

矢代秋雄遺稿集『オルフェオの死』(深夜叢書社)

第2楽章を支配する寂漠感は、大戦末期という時代の翳でもあるのだろう。曲尾部分ppのディミニュエンドの末に最終小節で鳴らされる和音は、見かけはd上の長三和音である。しかし和音への明るい輝きを与える長3度音fisは、最高音であえかに響くのみ。希望への距離感が定まらない余韻を残している、とも聞かれるだろうか。

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