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人類も、私も、彷徨い続ける

私とエスペラントとの関わりは、知る人ぞ知る半世紀近く前に遡る。小学生の頃に百科事典の項目で見た〝世界共通語〟というコトバに魅かれ、大学書林の〝四週間シリーズ〟で自習し始めたのがそもそもの始まりだった。その後英仏独西露中その他の言語をかじり散らしていったのだが、それら外国語全般を理解するひとつのモノサシとして、私の中のエスペラントは常に機能していた。

大学生になり、あるきっかけで地元のエスペラント会の講習会に暫し通うことになるのだが、自分の音楽とこの言語を結びつける意思が当然の事ながら生まれていた。テクストとなる詩作を求めて様々なエスペラント詩人の作品を読み、その中で特に範となる存在が、ハンガリーのK.カロチャイ(Kalocsay Kálmán, 1891-1976) とスコットランドのW.オールド (William Auld, 1924-2006) だった。

古典主義を貫いた厳格な作風のカロチャイに対し、もう少し後代となるオールドはよりグローバルなスタイルと宇宙観を展開していて、両者は自分自身の中で、フランス詩におけるボードレールとマラルメのような存在として焼き付けられ、いつか彼らの詩に曲をつけてみたいと想うようになった。特にオールドの詩集『子供の種族 (La infana raso)』との出会いは衝撃的で、〝人工語〟であるエスペラントでここまでの表現ができるものかと瞠目、それが嵩じて下記譜例の作品 «...sed blinda celo»(…されど盲目なる目的は)を書くに至ったのである。

«… sed blinda celo» (2006) 冒頭部分

詩集全編より採り上げた章(第8歌)は、タイポグラフィの工夫など視覚的にも面白く、そして有史前の生物の発生から核戦争による壊滅までの人類史を俯瞰し、その底に無常かつ無情に流れる〝盲目なる目的 blinda celo〟の来し方往く方を冷徹に描いている。そんなスケールの大きさに果たして作曲当時の自分が見合うものだったかどうか、甚だ心許ないのだが、女声独唱と電子音響を用いてその独特な世界観を辿ってみたのだった。

«La infana raso» (la 2a eldono), STAFETO

この作品を仕上げた数日後、詩人オールド逝去のニュースを知った。

その初演の解説文には以下のように記した。

––– 死の瞬間、かつて水底に生きた太古の冷気と不動感が呼び起こされる。それでも“盲目の目的”は止まることなく続いてゆく。何処へ? 何のために?

あれからかなりの時が過ぎた。

そして今なお、人類も、私も、〝目的〟に消費されつつ彷徨さまよい続けている。


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