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アガンベン、時空を越える思想家

思想家アガンベンの思考は、文字通り時空を超えている。

それは、語源学とエピステモロジーによってである。どちらも「起源に遡る」ことによって、現在の我々を取り巻く諸物の配置が、過去の我々を取り巻く諸物の配置の再構成にすぎないことを明らかにする。その世界の中で全ては「反復」であり、そこに何ら新しいものはない。

例えば、アガンベンは近代の政治哲学を、神学の変化形だと喝破する。「神」とその「摂理」の二重性が立法権と行政権の二重性に、天使のヒエラルキーが官僚の階層性に変化したに過ぎない、と捉える。経済も「栄光」の表現の変化形であり、「ブランド品」とは「聖別」された「物神」である。

このような態度は、語源学的である。語源学では、ある単語を意味によってはとらえず、その歴史性によって捉える。誰が最初にその言葉を言い出し、どのような用法として用いられるようになり、そのうちどれが死に絶えどれが生き残ってきたのか、その単語がたどったあらゆる歴史でもって、その単語を把握する。

語源学において面白いのは、それは博物館に展示された白骨としてではなく、今も野原を駆け回る一匹の獣として、変化し続けているという事実だ。その単語は現在も生きた、すなわち未完成のものとして、人々の日常の会話の中で変容しつつ使用されている。つまりある単語は、その語源を把握するものにとって、時間を越える存在として目の前に生成し続けている。

これらの「語源」を全て把握した人間にとって、目の前で話される会話はどのように聞こえるだろうか? それは無数の和音を響かせながら古代と現在が対話する、摩訶不思議な不協和音に違いない。その中において顔を覗かせる「新しく見えるもの」はよく見ると使い回しであり、全てが同一のものの比喩であり反復にすぎない。

では、ここで「語」をあらゆる「認識」に置き換えるとどうだろうか? 我々の名付けうるあらゆる認識要素の、全ての起源を辿れる人間の目から見たら、世界はどのように見えるだろうか?

アガンベンの思索は、そのような地平の上で展開する。カール・シュミットとアリストテレスを戦わせるような、アクロバティックな思考。その芸当は、通常の枠組みから外れた引用の仕方をしてもかまわないほど、その対象を知り尽くしている者にしか不可能だ。

「その手法は、現在によって過去を、過去によって現在をそれぞれ照らし出すよりもむしろ、両者の対面のうちに全く新しい星座を描き出すものである。メシア的時間の「テュポス」はまさしく、「時間の変容」として、「過去と未来との緊張関係」として、アガンベン自身の仕事のうちに確実に生きているのである。」

「アガンベン読解」より

科学の直線上の時間こそ、我々現代人の奥底に深く根付く思考の枠組みに他ならない。それはヘーゲル的な弁証法的進歩、マルクスの唯物史観、ダーウィンの進化論とも接続して強固な枠組みを提供する。

しかし科学は本当に直線的に進んでいるのだろうか? 

それを疑わせるのがバシュラール、カンギレム、フーコー流の「エピステモロジー」である。彼らの見方においては、我々の科学は個々の時代の「エピステーメー」に限界づけられており、それを超えることはできない。

楽観的な人は、我々がそのパラダイムを乗り越えることで「螺旋状の進歩」を遂げると言うが、少なくともアガンベンの世界観においては、「深化」はあり得ても「進化」はあり得ない。例えて言えば、我々は各時代において、「人間が思い描ける技術」という普遍的な模様の中の特定の部分を精度高く現実化させることを可能にするが、それは模様自体の変化を意味しない。

この広い意味での「語源学」の視点において、我々は「永遠の現在」に生きている。そこは過去と未来が衝突する潮目であり、その緊張関係によって形成されるエネルギー場であり、全てがそこで生成するような場所である。

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