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自由とは、自由であるべく、不自由になる事である。-サルトル [②構築論編]

0.はじめに

皆さんは、前回の記事を読んで、多少なりとも違和感を抱かれただろうか。
気を衒ったタイトルとヘッダーと対照的に、平坦なデッキ紹介記事が続き、
特にタイトルの回収もないまま次の記事に誘導される。

今回の記事のテーマは、その「違和感」である。
表面だけ磨かれた、歪さ。
所謂、詭弁。

前回の記事に埋め込まれた違和感、それは
"自由を謳うこのデッキには、多くの不自由が織り込まれている。"
という点である。
なんなら、
"自由の為に多くの不自由を強いられている"
と言っても良い。

1.机上の自由:そのドラゴン、聖刻に勝てますか?

前回の記事では、「構築の自由」と「戦術の自由」の両軸をこのデッキのコンセプトと位置付けた。

構築の自由とは、《DDD覇龍王ペンドラゴン》(以下、「ペンドラゴン」)のコストである「ドラゴン族」「悪魔族」は何でも良い故に、あらゆるドラゴンと悪魔が採用候補に上がる、というロジックである。

ここがひとつ目の違和感である。

"ドラゴン族のコストは聖刻を当てないとコンセプトが破綻する"

勿論、ドラゴン族の採用を聖刻だけに当てるというのはナンセンスである。
実際、常に聖刻をコストに当て続ける方法は現状見出せておらず、代替のドラゴン族をコストにせざるを得ない状況は少なからず発生する。
また、聖刻とペンドラゴンの組み合わせができたからと言って、凡ゆる状況に対応できるわけではない。

とはいえ、ペンドラゴンのコストに当てるドラゴン族は、聖刻が圧倒的に優先度が高いのだ。

何故なら、"ペンドラゴンは弱い"。

2枚のコストを要求して手札から特殊召喚されるモンスターとして、その性能はあまりにも頼りない。

即ち、このカードはリリースコストとのコンボによって初めて存在意義が成立するレベルの代物である。

その為の聖刻であり、その為のシャドウ・ディストピアなのである。

シャドウ・ディストピアとのコンボについても、ペンドラゴン以外にもリリースコスト持ちは多く採用されている為、何が何でもペンドラゴンでないといけない状況というのは少ない。

つまり、聖刻をコストに当てられない状況で、わざわざペンドラゴンを出したい状況というのは、限定的である。

即ち、聖刻を除くドラゴン族の採用枠は、非常に狭き門である。

2.机上の自由:その悪魔、本当に必要ですか?

悪魔族はどうだろう。
シャドウ・ディストピアとのコンボがあるものの、聖刻ほどシナジーの強いモンスターもいない。
であれば、悪魔族の枠は真に自由であろう。

否、ふたつ目の違和感はここにある。

"悪魔族はDDで十分足りている"


コストが何でもいいなら、ペンドラゴン擁するDDが最もスムーズに準備できる悪魔族である。

地獄門の契約書による継続サーチ、DD魔道賢者トーマスによる回収、ペンデュラム召喚。
このテーマほど、悪魔族コストの確保に向いているテーマはなかなかいない。

このデッキの構築の自由度は高い。
これは間違いなく真実である。
全てのドラゴン族と悪魔族に、このデッキの門戸は開かれている。

しかし、採用への道のりは余りにも厳しく、険しい。
ドラゴン族や悪魔族を無理に多方面から採用しようとすると、
メインコンセプトは薄まり、やりたいことを自由にやることすら危うくなる。

つまり、構築の自由を求めた結果、戦略の自由度を手放す事になるのである。

3.机上の自由:山札の枚数という限界があったのさ


では、戦術の自由はどうだろう。
戦術の自由とは、EXデッキの枠の幅に直結する。

15枚も枠があれば、多彩な☆8-9シンクロや★7エクシーズを採用できるだろう。

否、15枚フルで使えるわけがない。
リンク召喚登場により、このデッキのEX枠の奪い合いは熾烈を極めている。

例えば、解門からキュリオスに繋げる流れ。

出典:https://www.youtube.com/watch?v=HQaVteLLgyg

このデッキにとって非常に有用であるが、この展開にはEXデッキを3枠消費する(リンクリボー、サクリファイスアニマ、キュリオス)。
実に、3/15。20%である。

また、ダークブルム採用により、安定してエレクトラムや天球の聖刻印にアクセスでき、DDやドラゴン族の基盤を整えることができる。これは、2枠消費。

このような形であれよあれよという間に残された枠は半分を切る。
現在、聖刻ペンドラゴンのコンボによりアクセスできるシンクロ・エクシーズモンスターは僅か5枠。

遊戯王原作における遊戯(アテム)vs人形(マリク)戦にて、
ゴッドファイブコンボにより無限の攻撃力を得たかと思われたオシリスは、
遊戯(アテム)の無限ドローコンボの前に敗れ去った。

「神の力は無限じゃない。山札の枚数という限界があったのさ。」

このデッキの自由もまた、山札の枚数という限界にぶち当たった。

4.机上の自由:正解はひとつ!じゃない!!こともない

自由への最後の違和感、それは

"今時、多くの選択肢から選ぶ必要はない"

である。

このデッキの戦術の自由度とは、
状況に合わせて☆8シンクロか★7エクシーズを選べる、という点である。

しかし、カードパワーが上がり続けるこのゲームでは、最早、選択肢の多さは不要である。

シンクロには、ヴァレルロードSドラゴンが登場し、1枚で打開(高打点)と制圧を両立できるようになった。
エクシーズには、アーゼウスが、打開・制圧両方こなせるカードとして登場している。

このように、八面六臂の活躍をするカードの登場は、
プレイヤー、とりわけ、ファンデッカーの悩みの種である。

このデッキは、"様々なEXデッキのカードを使い分けて戦う"というコンセプトを掲げている。
しかし、時代と共に、そのコンセプトをじわじわと否定されつつある。

致命的な不自由である。

5.自縄自縛の構築論

このデッキは、自由をコンセプトとしている。
しかし、そもそもの不整合や時代の流れと共に、
その自由の綻びは徐々に広がりつつある。

この自由を維持する為には、穴を埋める為の理論武装を施し、時にはその不都合から目を瞑る必要がある。

やれ、本当のデッキコンセプトは。
やれ、このデッキを使う意義は。

長い間デッキを捏ねくり回す間に、
いつしか理論は詭弁に塗れ、
その張りぼてのか細い支柱は撓(たわ)み。
振り回すには余りにも脆く歪な存在となる。

自由であると振る舞う為に、
多くの不自由を抱えていた。

6.さいごに 自由からの逃走

皆さんは、私のような経験がないだろうか。

デッキコンセプトに縛られ、自分のルールに縛られ、
楽しいはずのデッキ構築が、使命感と執着ばかりの代物になってしまったことは。

デッキ構築とは難儀なものである。
とりわけファンデッカーというものは。

私は悩みの果てに、このデッキを一旦寝かせることにした。
向き合わないことで、向き合うこととした。

私はこのデッキが好きだ。
多くの困難はあるが、様々な可能性を秘めたデッキであると、未だ信じている。
だからこそあえて、離れることにした。
何かが煮詰まった時、得てして、それを解決するのは時間である。
そう信じている。

そして、その結果。
状況は、好転しつつある。

続きは、次の記事で。

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