【おはなし】或る言葉の居場所について
町の端っこにはこの家以外には建物がない。
周りを背の高い林に囲まれていて、ここに近づく人はほとんどいなかった。
生い茂る木々の間にぽつんと隠れるように立っている小さな屋根の家。
そこからコーヒーの匂いが漂ってきて、確かに人が住んでいるのだとわかる。
扉を開けると室内は机と椅子があるだけの空間と、壁ぎわには本が高く積み上げられている。薄暗い部屋の中に窓から細く差し込む光で、舞ったほこりが照らされた。
「たまには部屋を掃除しなよ」
見慣れた部屋の中に向かって僕は話しかける。家の主はこちらをちらりと見て椅子から立ち上がり、口を尖らせながら部屋の向こう側へ逃げていく。
西側の窓を開けると、部屋の空気がささやかな風にかき混ぜられた。
「■■■■■■■■■■■■■」
肌をなでる風を感じていると彼女がひとりごとのように何かを言った。僕に文句を言っているのかもしれないけど、なんと言ったのかは認識できない。
ふと机の上に便箋が置いてあるのに気づく。四隅に花の絵が描かれた、綺麗な色の便箋。
ーーー
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ーーー
自然と文面に目がいくけれど、書かれたことを理解することはできない。
「手紙を出すの?」
いつのまにかテーブルには二人分のコーヒーが置かれていた。嬉しそうな顔で家の主が向かいの席に座っている。香ばしいにおいが鼻の奥へ入ってくる。
「■■■ ■■■■■」
彼女の返答が僕の頭の中に聞こえる。黒く上書きされた言葉が、隠れて僕をくすぐってくるようで、ちょっと愉快な気持ちになる。
「コーヒーをありがとう」
「■■■■■■ ■■」
「ええと、砂糖はあるかな」
その人が立ち上がり砂糖を取ってきてくれる。
「■■■■」
彼女はもともと口数が多いほうではない。それでも僕が何かを言うとそれにあわせて返事をしてくれる。
「ありがとう」
「■■■■■■■」
塗りつぶされた言葉を知ることはできないけど、それでも僕はそのやりとりが楽しかった。この時間が、すごく楽だった。
砂糖を入れてスプーンでかき混ぜる。
カップの黒い中身から、ほっとする香りが漂ってくる。
***
彼女の話す言葉が分かる人が、この町には誰もいない。
その人のうみだす言葉は聞く人の頭の中で黒く塗りつぶされ、なんと言っているのか理解できないようになっていた。
それは音声でも記述でも同じだ。
町のいちばん端っこの、林の中の小さな屋根の家にその人は住んでいて、名前をミハといった。
ミハについて知っているのはそれだけ。
ミハは何日かに一度、朝の市場に顔を出して、ひとりで持てる分だけのすこしの食材を買っていく。
町でミハに話しかける人は誰もいない。ミハは怖がられ、嫌がられ、避けられていた。
「■■■■■■■■■」
僕達には聞こえないような特別な周波数で、頭の中を書き換えているのではないかとか、魔女の呪詛なのではないかとか、ミハの言葉について大人の人はかくれて色々なことを言っていたけど、僕にはよく分からない。
***
晴れた日の午後。
空になったコーヒーカップがふたつ。
ドアを開けると緑が鮮やかに光っている。
家のまわりの林をすこし散歩する。
「■■■■■■■」
ミハが呼ぶと林の中から動物たちが集まってくる。様子をうかがうように、彼らはそっと近づいてくる。穏やかな時間だった。
「■■■■■■■■■■■」
ミハがつぶやいた。
動物たちの耳にはこの塗りつぶされた声はどう聞こえているんだろうか。
言葉は伝わらなくても動物に餌をやる様子から、ミハの思いやりがいくらでも伝わってくる。ミハはいい人だ。
もしこの人が魔女なのだとしたら、今までの魔女に対する考えを改めなければいけない。
僕はミハの隣に腰を下ろした。
「町の人たちに言われたんだ」
「■■■」
ミハが不思議そうに首をかしげた。
「ここにはもう来ちゃいけないって」
山猫の後頭部をさすりながら、僕は言う。
その理由は尋ねなくてもわかった。町の人は彼女の不思議な言葉を、どうしても受け入れられなかったのだろう。ひどくばかばかしく思う。
「■■■■■」
ミハがこちらを向いてぽかんと口を開けた。木漏れ日が、彼女の顔をまだらに照らしている。
「みんなすごく勝手だよ」
「■■■■ ■■■■■■■■■」
僕をたしなめるように、ミハは困ったように眉を下げてほほえんだ。餌を食べ終えたムクドリが飛び立っていくのを見て、ミハが目を細めた。
「■■■ ■■■■■■ ■■」
ミハがなんと言っているのか、町の人たちは誰も分からなかったけど、彼女自身は周りの人の言うことが分かっている。
「■■■■■■ ■■■■」
それは周りの言葉が分からないよりも、もっとずっとつらいことだと、僕は想像する。
外に出ることのできない言葉たちでミハの頭の中はいっぱいに膨れて、きっとすごく苦しいと思う。
「■■■■■」
言葉だけがミハの全部じゃない。コーヒーを飲む仕草とか、おそるおそる動物を撫でるときの表情とか、本のページをめくる指先だって、全てが彼女だ。
「僕はこれからもここに来るよ」
みんなはミハのことをわかってない。彼女が何を考えて何を見ているのか。いつかそれを知ることができたらいいなと思う。
「■■■■ ■■■■■■」
ミハがいなくなったのは、その次の日だった。
僕だってミハのことをわかっていなかった。
***
彼女の家には手紙が残されていた。
手紙は僕あてに書かれていた。
ーーー
ごめんね。
突然いなくなって、申し訳ないと思っているよ。
私が町の人に怖がられていることも、君が気をつかっていてくれていることも、全部知っていたよ。
いつも遊びに来てくれてありがとう。また君とコーヒーが飲みたかったな。
これから私は私の居場所を探そうと思う。
私の言葉を受け取ってくれる人がきっとどこかにいるんじゃないかと思ってね、その場所を探そうと思うんだ。
君の言葉、私はもらってばかりだった。私の方からはなんの言葉も返せてない。
それだけが心残りだな。
届かなかった言葉たちは、どこに行くのかな。
誰にも伝わらない言葉たちの居場所が、どこかにあるといいなと思うんだ。
そこはすごく広くて静かな場所で、言葉たちは安心して過ごすことができるの。
彼らは本来届くべき場所には届かなくて、役割も果たせなくて、途方に暮れてるの。だからみんなで身を寄せ合って、優しさを分けあいながら過ごしてる。
私がつくる言葉は誰にも受け取ってもらうことができないけど、そういう所なら、私の居場所もあるのかもしれないね。
ねぇ、この言葉はいつか誰かに届くのかな。
こんなとき、きみならなんて言うのかな。
これを読んでもらえるとは思ってないけど、私のこと、たまに思い出してくれたら嬉しいな。
じゃあね。
ありがとう。
ミハ
ーーー
手紙から、ミハの声が聞こえてくるようだった。
胸のあたりがやたら重たかった。
ミハがいなくなってしまった。
町のせいなのか。言葉のせいなのか。
手紙を読み終えてしばらくして違和感に気づいた。
どうして、僕はミハの手紙を読むことができているのか。しばらくぼう然としたあと、はっとして深く息をすいこむ。
彼女の名前で手紙は締めくくられている。
僕はどうして彼女の名前を知っているのか。
他人に言葉を受け取ってもらうことができないミハの名前を。
すごく、簡単なことだった。
***
ミハがこの町にきたころ、町の人たちはみんな困っていた。
「■■■■ ■■■■■■■■■■■」
町の広場で彼女が懸命に何かを伝えようとするけれど、頭の中でどうしても黒く塗りつぶされしまう。
「■■■■■■ ■■■■」
ほとんどお手上げだった。いやな顔をする人もいれば、くすくすと笑う人もいた。
「■ ■■■■■ ■■」
人びとはその場から少しずつ去っていき、広場には僕とその人だけが残された。彼女はうつむいていた。
こらえきれずに僕はその人に近づいていく。
「ええと、きみの、名前は?」
会話ができなくてもよかった。意味は認識できないけれど、鼻歌のような、ささやくような彼女のその言葉の感触が、僕はけっこう嫌いじゃなかった。そうしなければいけないと、思った。
「■■」
うつむいたままその人が答えた。
突然頭の中の黒いもやが一瞬だけ消え去った。 意味が鮮明になり意識の中に入力され、僕はそれを知ることができる。
「ミハ?」
不思議とその音が頭に強く張りついた。その人がはっと顔を上げ、丸い大きな目でまばたきをくり返す。
「■■」
「それは、きみの名前?」
「■■■■■■■■」
彼女が泣きそうな顔で何度も首を縦にふる。
認識はできないけれど、ミハの言葉は僕にとってただただ心地よかった。音楽を聞いたり、木々のざわめきを聞くのと同じように、その音をもっと聞いていたいと思った。
僕はミハの家に遊びに行くようになった。
それからたくさんの時間をミハと過ごしたけど、彼女の言葉が分かったのはその一度だけだった。
***
僕があのときミハの名前を知ることができた 理由と、僕がミハの手紙を読むことができた理由。
ふたつは同じだ。すごく簡単なことだった。
僕がほんとうに知りたいと思ったからだ。
ミハが何を思って何を考えているのか。どういうことを悲しいと思って、どういうことを嬉しいと感じるのか。何を伝えたいのか。
それを本当に知りたいと思った時、ミハの言葉が聞こえるのだ。
いつでも会えると思ってたから、だから前まではミハの声が聞こえなかった。前は別にそれでもよかった。けれど今は違う。
心から知りたいと思ったから、だから僕は今彼女からの手紙を読むことができている。
僕たちは知りたいと思ったことしか知ることができないし、聞きたいと思った言葉しか聞くことができない。
ミハがいなくなったのは、きっと僕のせいだ。
***
コーヒーの匂いが染みついた、小さな屋根の家。
たくさんのほこりが積もっていたので、まずは掃除から始めることにした。
窓をぜんぶ開けて、空気を入れ替える。
床に積み上げられたたくさんの本は本棚に。本の内容は僕が読んでもさっぱり分からなかった。きっとこの本も、誰にも届かない言葉たちの仲間なのかもしれない。
床のほこりは手のひらに溜まるくらいたくさんの量が集まった。だからたまには掃除をしろと言っていたのに。
机と椅子は使い込まれ、よく触る部分はすこし色が濃くなっていた。前の家主の気配が、いろんなところにあった。
僕が小さな屋根の家に引っ越してから、季節が何度も変わった。
山猫の家族が遊びにきた。
夜はミミズクも鳴いていた。
僕も歳をとった。
景色は緑になり、赤くなり、黄色くなり、茶色くなり、白くなり、また緑になる。
家のまわりは日に日に色を変えていく。この様子を見てあの人はなんと思うのだろうか。どういう言葉で、表現するのだろうか。
いつもの日の午後、扉のすぐ外で空気がふるえた。
鼻歌のような、ささやくようなくすぐったい振動。
「部屋、掃除してくれたんだ」
他人の気持ちなんてわからない。だから、わかった時にすごく嬉しい。
僕たちは、遠い。言葉だけじゃ何もわからない。わかりたいと思う気持ちを持ち合わせていないと、何ひとつわかることもできない。
窓を開けて、そんな気持ちをたずさえながら、これからもずっと、過ごしていたいと思った。
「ただいま」
ミハが言った。僕は振り返る。すこし視界がにじんだ。
「おかえり。コーヒーでいい?」
ここがこの人の居場所になるまで。
今度は。
おしまい
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