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認識論に堕ちてほぼほぼいのちの灯火が終わったに等しい人の特徴を並べると、もう希望もクソもないことに気付く日々。

 先日、近隣の県のサラリーマンで、脱サラしてぶどう農家になりたい人が僕らぶどう農家仲間に話を聞きに来た。

 が、これがしかし、目に一切輝きがない。

 あぁ、満員電車を思い出した。

 僕らがどれだけ夢を語っても、僕らがどれだけ感動を伝えても、もう、本質的には「言語」や「数値」意外、文學的な認識を超えてその人に伝わるものはないのが明確だった。

 めちゃくちゃ真面目で、リスクばかりを計算して、かといって本当にしてるのかといえば、深く聞くと、ある一定以上何も考えも想いも出てこない。言語化してないわけじゃなく、ただ、満足するレベル(プライド)がどこかにきっとあって、そしてとんでもなく分厚い殻の中の世界で生きているからだということも、分かりやすかった。

 だが、そういえば僕はこういう人だらけの環境で育ったし、自分の親も、友人も、みんなそんな人だらけだ。

「これをやりたい」と言っても、実際本当に心の底から、圧倒的純度のいのちに根差した感動が無いので、直ぐにまた他にやりたいことができたり、なんだか、取り繕いながら肯定ループに入ったりする。

僕に希望を与えてくれた大切な人も、つい最近、希望を失って行った。

そこに陥っている人の特徴を考えてみた。

 ・物事、人、様々なことを並列に並べるので、自分が傷付いてでも、という気持ちで優先順位をつけられない。

 ・目の前にある「いのち(非生命)」と向き合わない。

 ・言葉から実態をイメージするしかなく、実態から言葉を探ることをしない。

 ・自分の見たもの感じたことしか、もう想像もできなければ、あるとも思えないし、感動できない。(環世界の喪失)

 ・めちゃくちゃ頑張って生きてる自分を自分が一番頑張って「肯定」したい。

 ・「本当にそうなの?」を突き詰め続けられると、「まぁこういう見方もできるでしょ。だからいいじゃん別に。」と言って話が終わる。

  ・視点を動せるようになること、視野が広がることが、ものすごく本質的な成長だと感じる。

 ・ある一定以上、欲望やぼんやりした思考の上に成り立ってきた人生を否定されると、「プライド(肯定願望)」が発動して、不快な気持ちを感じ始める。

 ・「生命(心臓が動いていること)より大切なことがあるかもしれない」という思考をただ危険な恐ろしい考えだと思う。

 ・「人と人は、ぶつかってこそ、認識できない世界が輝き、いのちは繋がって愛は溢れてゆく」という話をしたら、「宗教?スピリチュアル?いいじゃん。好きな人と一緒にいて、好きなことして、好きなものを見て、やりたくないことをやらないことの、何が悪いの?」と言う。

 ・圧倒的な主観から抜け出せないので、毎日かなり息苦しいし、真っ黒い膿の中で漂ってるような感覚でいる。

・相手の環世界に入れないので、本当の意味で相手のことを愛せていない気持ちになる。

・「生命を落としてでも守りたいもの」を追求したことが無い。


そしてなんと言っても、

そこから抜け出す方法も知らないし、

そうでない世界があることも、

想像することさえできない。


おお、ちょっと待て待て。

これじゃあ、みんなそうじゃないか。

うん。みんなそう。みんなそう。


僕はまだ、出会ったことがない。


ある認識論をぶっ超えて、溶かして、

さらにその先で、圧倒的に溢れる純粋な希望を、持ち続けてられる人を。


だから僕は、いのちと生きたい。


僕は、いのちと生きていたい。




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