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「よかったね、よかったね」って本当に感動して嬉しくて泣きながら言えてしまう僕だからこそ、違うと直覚するものに違うと言い続けなきゃいけないような気がして、、、。

最近、激しく限界突破の繰り返し。

本来とても人間的感情が豊かなんだろう。普段から波はとてもあるけれど、本来の僕は恐らく、専ら環世界溺れ感動マシーンだ。

人がその人にあったカタチで、何層にも渡って貫かれた、「いのち」を見つけた時ほど、僕にとって豊かな瞬間はない。

本質的に、本当に心の全ての感動感情を解放させて、震えながら喜んで抱きしめられるような、そんな人間なんだと思う。

そんな僕の本質を解放させた人と、そんな僕の本質を愛してくれた人と、僕は永遠にトモニゆくものだと安心しきっていた。

無論、曖昧さを極め、分断の根源を作り出してきた「幸福」という言葉やなんやかんやにはたいして興味がなく、とにかく突き通っていて、透き通っているような、ふわふわで温かく、あらゆるものを溶かしてゆく、奥の奥の奥の、核に触れていたいという気持ちでしかない。

間違いなく、僕はそこへの直覚にだけは自信がある。認識論など遥か昔に飛び越えて、自然の奥底、普遍の奥底、核心の奥底、に流れる素晴らしき世界の、いのちの話をしよう。我思う故に我ありなど吹き飛ばして、抱きしめよう。

そんないのちを、掴んで忘れない自信だけはあるから、僕は人を苦しめてしまうことはあるけれど、人を殺すような行動は手の届く限りしないって自信もあるし、本当に心の底から溢れ出る言葉を温度で伝える自信もある。

生まれてきてくれて、ありがとう。

ありがとう。

ありがとう。

いま、あなたがいる、

本当に、本当に、ありがとう

ありがとう。


俺に、「あなたは今を満たせない」と言った人は土下座して謝ってほしいほど、俺の本質はあなたのいのちやその上にあるもの全てを今も、そしてこれからも満たし得る。

ただ、人間を「雰囲気」や、「容姿」や「言語」や「周波数」や何かでしか見ないのなら、僕なんてクソほど価値もないゴミなのかもしれない。

ただ、人間と人間の繋がりは、本当にそんなところに終着させてよいものなのだろうか。

だけれどもこれは、僕が、いのちに触れていられることが絶対条件で、そこが抜けると、もう私は安楽死について事細かに調べるしか現生命にてやることがなくなってくる。


本来、どこまでも深く、

人の前に進む気持ちや、一歩止まる気持ち、後ろに下がってみる気持ち、

あらゆるものに感動し、

よかったね。

と、涙を流せた僕が、いま、この時、はじめて、

「違うと思う」

と、はじめて断定することに、一体、どれほどの、何が、あるのかは、自分自身にも予期せらるるところではない。


あくまで本当に冷静な時に、そこまで言う自分は、自分自身、見たこともなかったので、正直驚いてもいる。本当にこれでよいのか、何度も疑う性分なので、何度も考えてきた。

それでも僕は、僕だからこそ、言い続けなきゃ、いけないことが、守り抜かなきゃいけないことが、あるんじゃないだろうか。

そう思いながら、繋いだ手を、しっかり握っていたい。

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