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「認識」

メタ的な見地から,「認識」について語る人に,僕は,何を想うのか,という話.

如何様

 その辺の世界観の100回りくらい先の話.

 ある計り知れない程の一定の苦しみを背負うと、人は、深い認識論へ向かうと考え得る。それは、絶望との「触れ合い」の場所である。苦しみを消化すべく、人間的理性的思考によって、全てを同一化してゆく。視点の変異と言語的認知操作で人は、如何様にでも世界の見方を変えることができることを直覚する。

「全てのものは、○○だし、○○じゃない。」

という言葉を悟ったように発し始めたら、その兆候が現れていると考えてよいだろう。

 この先に待ち受けるは、ニヒリズムの蔓延と、西洋的個人主義の無意識的受容である。西洋諸国では、この流れは歴史上常に一般的になっており、さらに宗教への不信感はそれを増幅させてきた。

 数多あるテクノロジーの進歩は、世界中でこの流れをよくよく助けてきた。手触り感や生物的温度のない(「土から離れた」)コンテンツ消費は、より平面的言語世界に人々を閉じ込め、ある枠から出られない人間を大量に生み出してきた。人々を助け、豊かにし、新たな自然を作り出してきたテクノロジーたちに、ただならぬ直感的「希望」を感じるのもまた、ここで生み出された人間の1つの特徴だろう。

 また、そのテクノロジーの恩恵をモロに受け始めた「近代」の教育制度や社会を形作っている諸概念に埋没している人間もまた、この沼に無意識の中で穏やかにハマってゆく。

 そしてその苦しみの中で見つけた1つの消化策は、歴史上数多の戦争と差別と分断を産んできた。欲望と絶望が混在し、互いに影響を与え合いながら膨張してゆくことで、人々はそれ以外の「生の営み」に気が付かなくなってゆく。

 そして、認識の中で発生した「希望」を語りながら、見えることのない灯台の明かりを知らぬ間に消してゆく。

 人類は愚かだから、進化してる気になって、人を助けた気になって、歴史を繰り返してゆく。自分自身がその歯車の一部になっていることに誰も気がつくこともなく、人類は、歩み続けてゆく。

平面的言語世界と沼

「認識」を語る人に,「若いな」という言葉をかけるのは,なぜか,という話.

 絶望との「触れ合い」の場所。それは、極めて3D平面的な世界線である。真っ黒い霧がどこまでも覆っているので、奥底まで広がっているようにも認識的には見えるが、手に触れることができるのは、目の前に平面的に並んだ安心安全な「コンテンツ」ばかりである。

 これは末永く続く「終わらない恐怖」でもあり、一つ一つが脆くて「持続可能」なものでもある。人々が「コンテンツ」のようにあらゆる物事、人、出来事を認識して扱ってゆくと、全てのものが取替え可能なので、世界はつづく。「持続可能」なのである。一方、その中で数多の死者をだし、数多の苦しみを生み出して、「機械」と大差ないシステムとしての生物をたくさん生み出してゆくことになる。

 そこにはもう、「いのち」は存在せず、「生命」のみが存在すると言うこともできるだろう。

 そして彼らは、皆、「幸福」の枠内にある。

 平面的世界で持続する生命たちは、「否定」に強く見えて、本質的には圧倒的に弱い。

  「否定」を受け入れて立つ勇気の無いものたちが、視点の変異と言語的認知操作で全てを同一に変えてゆくからだ。

 「否定」を背負わない沼は、どこまでも深く、抜け出すことなど到底不可能だろう。だがそれは、「背負った気になっている」からにすぎない。そんな自分自身の行いを否定して堂々と立つができるのならば、人はまた、「いのち」を感じられるようになる。

 「若い」というのは、直感的に平面世界の「希望」に希望を感じる力があるということである。「老いる」というのは、直感的に、灰色の霧の先にある灯台の光をハッキリと受け取り、霧を掻き分けて進む力があるということなのである。


神性と「いのち」


 人を取替え可能なもののように、役割を割り当てて「扱う」人間は、この世界に数多くいて、それは全く狂ってなんかいない。ただの「よくいるクズ」でしかない。自分を「狂ってる奴」と「認識する」ことで、ただ自分を肯定する視点を保持したいだけなのではないだろうか。

生の営みは、コンテンツではない。

 無論、何度も言うように、「若い」というのは、この文章を読みながら、メタ的に思考せず、自分を守るための理論武装を必死で行っているその脳ミソ、そのものに対する言葉である。

  この世界を層化して模索してゆく勇気も覚悟も無い人間のよく口にする言葉は、

「そういう視点もあるよね。」である。

当たり前のことを意気揚々と発するその姿勢は、やはり「若い」と言わざるを得ないのではないだろうか。

 無論、ビジネスや自己啓発、「幸福」や「言語」の中では、その若さは輝いて見える。そして、まるで悟ってるように感じられて、満足感を感じることさえできてしまう。

 

 だがしかし、この世界には、

本当に、その先はないのだろうか。


その先は、「苦しい」とか、「嬉しい」とか、

「愛してる」とか、「生きている」とか、

そんな言葉や感情で表せられるほど、

単純明快で、生温かいものなんだろうか。


「いのち」は、どこにあるんだろうか。


 あなたの直感は、今、どれほどの層を貫いているのだろうか。


層化した世界のその先に


 その辺の世界観の100億回りくらい先の話。


 層化して模索してゆく世界のその先には、圧倒的な安心感と、あまりにも純粋な感性の発露を永続的に許す世界線が存在すると、僕は直覚してきた。

 そこには、ある言語では表せられないほどの「生の営み」があり、その全てが、ある言語では表せられないほど輝き、堂々と立っている。

 “いのち”は、ここにあったのか。

 生や死のその先を、恐れることなく模索してゆくと、我々は、「いのち」の存在を直覚する。

 それは即ち言語次元では絶対に表現不可能な、何層にも渡って永遠に貫かれた唯一無二の感動なのである。

 あらゆる沼から解放され、全いのちを解き放って踊り出し、圧倒的な安心感と、感性の発露で、思考や感覚は全て溶けだして蒸発する。

 この世界の片隅のあらゆる生の営みへの感動は計り知れないほど大きくて爽やかで温かいものとなり、他者への愛は、いのちに内包されてより豊かで自然なものとなって、その輪は広がってゆく。

 それを言語世界に戻って表現する方法は現状無いに等しい。我々は、その直覚を複数の生命と共有することはできない。一度、何かの生命と溶け出すと、それはその瞬間、永続的な抱擁性を持ち得る。

 そのある神性を持つ関係性 “いのち” は、圧倒的にモノアモラスなものであり、他生命の介入は不可能であることがそこで発揮される稀有な世界線の永続性を担保するのは間違いない。

 言語世界に埋没した人間は、また認識によって複数の共有相手を許容し始めるが、それはもう、あくまで平面的言語世界を出ることの出来ない「希望」と「欲望」と「幸福」なのである。

 そんな時に、直感的に、“いのち”の光を受け取って、霧を掻き分けて進む勇気を持てるかどうかで、あらゆるものを超越した層化した世界の面白さを感じて生きてゆけるかどうかが決まってくる。

 そして、そこに身を置いていることは、間違いなく他者や他生命の希望であり続けるのでは、ないだろうか、、。勿論それが出来れば、あなた自身が、純粋な感性の圧倒的発露を永続的に許容されて生きることが可能になるし、取替え可能なものとしての優しい「希望」を掲示して生涯を終わることもなく、何層にも渡って貫く希望の存在を、愛する全てのものたちに、本質的に伝えられるようになるのではないだろうか。

 それは、自分がそうである姿を体現して立つ背中を見せることによってのみ伝えることが可能で、決して“いのち”を「コンテンツ」と「認識」して取り扱ってゆくことではないはずだ。

 私も諦めていた一人ではあったが、ある神性を持った生命が、私に“いのち”の存在を教えてくれた。

 その希望を捨てがたいから、僕は、どんなにえげつない感情の起伏にも、未だ耐えられているのではないかと、最近は、深く感じている。


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