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「今が楽しけりゃいい」って言う人と、「everyday my last」と言う人は根本的に全く違う。本当に貴方がありたいのは、どちらなのか

 僕はまだ21年しか生きてないから、出会ってきた人の数もその分少ない。けれど、親が転勤族だったこともあり、小さい頃から日本のみならず色んなところに住んできたおかげで、同じような環境以外で育ってきた人たちと、たくさん交わってきた。

 若輩者なりに、これまで関わってきた人たちを見て思うことがある。

 それは、環境によって生まれる、子どもが持つ深層心理下の苦しみの差である。

 自分が関わってきた人を辿っていくと、苦しみを受け入れて、それから逃れるべく、「今の楽しさ」を人生の軸に置く人が、相当数いた。

 だが、全体で見ると、その人たちが感じているような苦しみを、ほとんど感じることも無くぬくぬく育った人たちの方が、多かったような気がする。

 しかし、今の子どもは、これが逆転しているのではないかと感じることも多い。

 とかく、苦しいと、苦しみを受け入れて、人に助けてと言うこともできず、誰かほかに「愛してくれる人」を探し、自分を脅かすような「刺激」を求めたり、目の前にある救いにとりあえず手を伸ばしてみたりするようになる。そしていつも虚無が胸の中にある中で、満たされる何かを取っかえ引っ変え使い捨ててゆく。

 苦しみは常に連鎖してゆく。そして、この苦しみの沼にハマってしまった若いものたちは、苦しみを溶かして生きてきた人間を、苦しみの沼に引きずり込んでゆく。

 こういった苦しみは、この社会に現れる数多の悲しき出来事の深層に必ず存在していると、僕は考えている。

  はて、なぜ、こんなことになるのだろうか。

 生きてきた環境に、一体どんな差があるのだろうか。色んな環境要因があるとは思うが、今回は、「いま、生きていること」に対する意識の差に目を向けたい。

 自分が生きてきた中で関わってきた人、家族、友達、恋人、多くの人が、「今が楽しけりゃいい」という意識で生きていれば、やはり、多少なりとも、どこかに、自分の存在に対する「不安」を抱えて生きなければいけなくなる。

 そうこの辺りは連鎖、ループを続けるのだ。

「今が楽しけりゃいい」という発想は、世界を認識論で捉えたり、満たされる何かをとにかく探し続けたり、平面世界、もしくは3D平面世界で物事を消費し続けることに繋がる。

 では、「いま生きていること」に対する意識で、「今が楽しけりゃいい」的発想以外に、どんなものがあるだろうか。

 1つ思い浮かぶのが、

「everyday my last」

という精神だ。英語文法的に正しいのか分からないが、とにかく、「毎日が最後。」「今日は今日しかない。」「今日で人生が終わるかもしれない。」「今日、最後の日だとして、自分は何をするのか。」といったような意味合いだろう。

 これは、僕の高校の亡き先輩が大切にしていた言葉だった。その先輩は、日誌によく、「everyday my last」と書いていたらしい。その先輩は、エレベーター事故で、高校生の半ばで亡くなった。


 一般的に、「今が楽しけりゃいい」精神の方が、「今」を大切にしているように見られるかもしれないが、僕的には、「今」をより大切にしているのは、後者なのではないかと考えている。

 無論、前者と後者は、全く違う。

 前者は、この世界を平面的に捉えて、今やりたいことを取捨選択していく。

 一方後者は、この世界を、この世界と捉えて、その中で生きる一つのいのちとしての自分が、今、本当に、やることを、命を燃やしてやる、やってみせる。

 前者と、後者は、全く違う。

 だが、後者はある程度の「余裕」がないとできない。根底に苦しみが眠っていて、それを受け入れて諦めて生きてきた人には、なかなか到達し得ない境地でもある。

 つまり、環境なのだ。連鎖なのだ。


 前者で生きていると、「本当に大切なもの」の存在を直覚する意識が薄れ、知らぬ間にその選択肢を消して生きてゆくことになる。

 後者で生きていると、「本当に大切なもの」を、死んでも守りに行く精神を持ち合わせることができる。


まず、前者を選択せざるを得ない苦しみを、圧倒的父性で溶かしてくれる人と出会えるかどうかで、色々変わってくる。もしも、出会えたのなら、願いを叶えるチャンスでもある。

「今を満たしながら、今を大切に生きながら、根底の苦しみを完全に溶かして気化させ、生きる」

という願いを、叶えるチャンスなのである。

 勿論、そのためには、灯台となる人と出会う必要もある。本当に心の底からピュアナチュラルに灯台だと直覚できる人の光を頼りに、「今、生きてる自分」の軸を自分自身で描いてゆくことが必要になる。

さすれば、本質的に後者の意識で「今、を満たし、今、を生きられるようになる」のではないだろうか。


 ただ、普通そんな人と出会うことはない。そもそも、あらゆる苦痛を本質的に溶かせるほどの圧倒的父性を永遠に持ち合わせる人などほぼ皆無である。だから、連鎖は続く。

 たとえ出会えたとしても、色んな事情でその人を平面世界の駒の1つに捉えてしまい、使い捨ててしまうような場合もある。

 一体あなたは何がしたかったのか。

 どこへゆきたかったのか。

 「今」を、本当に満たしてくれる人は、

 どこにも、いないのか。

 今日、人生が終わるとして、

 あなたは今日、どこへ向かい、

 何を守り、何をするのだろう。

「いまを、いきる」って

一体どういうことなのだろう。


 本当に、この広い世界で、全なる人に出会えることは、ほとんど不可能なのかもしれない。それでも、その一抹の希望を、忘れないで欲しい。心のどこかで、大切にしておいてほしい。

 それが、現れた時に、簡単に通り過ぎないようにするために、心のうちでは、あなたも誰かのそういう人を、目指していて欲しい。本当に心の底から、全てを溶かし、「いまをいきる」を、愛せる人を、ぼくらは諦めてはいけない。

 ぼくらは、諦めてはいけない。



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