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アロマンティック・アセクシュアルの自認と物質的限界、そしてその先にあるセクシュアリティを超えた「いのちの繋がり」について。

 現在、NHKで「恋せぬふたり」というドラマを放送している。取り上げているテーマは、アロマンティック・アセクシュアル(他者に対して恋愛感情も性的感情も抱かないセクシュアリティ)と、その中で考える家族や人と人の繋がりについてである。

 高橋さんと岸井さんのお二人の演技は本当に見やすくて、安心して自然に見ていられる。そしてなんと言ってもこのドラマ、共感できるポイントが非常に多い。

変容するセクシュアリティ

 僕は、僕が生来持って生まれた何かについて本当に興味が無く、自分のセクシュアリティとか、欲とか、自己実現などが、全くどうでもよい。

 そんな僕にとって、「僕のセクシュアリティ」というものは、「1つ」として存在せず、かなり変容を続けて、結局生涯共にいたいパートナーと一致してゆく性質がある。

 せっかくなのでもともとの僕を振り返って整理してみたいと思う。今まで興味が無く、ちゃんと考えてこなかったので、人生で初めての試みだ。

 恐らく僕は、幼少期はパンセクシャルであったような気がする。パンセクシャルとは、好きになるにあたりそもそも相手のセクシュアリティを条件としないセクシュアリティのこと。

 僕は、小学生の頃は、男性の友だちに対しても、女性に対して抱く好意と同じような好意を抱いていた。極めて恋愛的な要素が強かったかもしれない。登校して、今日もあの子は来ているかなと探してみたり、でも話しかけようとするとちょっと緊張しちゃうような、そして他の人と仲良くしてると、いいなぁと思ったり、話してる時になんだかドキドキするような、それは寧ろ女性より男性に対して多くあったかもしれない。

 自分で「恋愛」とはじめて自認したのは、小6の時であった。相手は女性であった。無意識の間にその人の事ばかり考えて気になるようになっていたので、「あ、これが恋愛ってやつか?」なんて感じたのを覚えている。ちょうどその頃から、性的指向も芽生え始めていたと思う。女性の胸に意識に反してチラチラ目がいくようになっている自分を客観視して、「気持ち悪っ」と、思っていたのを覚えている。この頃から、自分の性的指向は、女性であることが分かってきた。

 その後、自分から「恋愛的」に好きになった人は3人いたが、全員たまたま女性だった。けれど、そんな中でも、男性を好きにならないと決めつけることなくやってきた。

 先にも述べた通り、僕は僕自身の自己実現に全く興味が無い変な人間なので、セクシュアリティなんてのも簡単に自然変化してしまう。

 そして、ある時から、「恋愛」に対して、興味が無くなっていった。そしていつからだろう、気が付いたらもう「恋愛」をしなくなってしまった。このドラマでもあるが、「いつか分かるから」とか、「いつかするかもよ」とか、そんなことを言われても、「????」が並ぶだけの、極めてアロマンティックに近い状態が、今の僕である。

 勿論、恋愛をしたことはある(「恋愛」だと自認したことはある)ので、恋愛の良さや気持ちはよく分かるけれど、いつからか他人に対して恋愛感情を抱かないセクシュアリティになった。そして、人を性的にも見れないので、極めてアセクシャルに近い状態でもあるが、性欲はまだある。そして性的指向はやはり女性のままでもある。

 性表現(自分の性をどう表現するのか)については、かなり中性的でありたいと常々感じながら生きている。例えば、体毛はなるべく無くなって欲しいし、カッコイイ女性が着るような服を着て似合うようになりたいし、逆に男性の図太い声を出したいと思ったり、筋肉を付けたいと思ったりもする。

 なかなか一筋縄で括れないのが人のセクシュアリティなのだとよく分かる。

恋愛で語られる要素について

 恋愛至上主義の人も、アロマンティック・アセクシャルの人も、「恋愛」で語られる要素を、「恋愛」という概念に閉じこめる人が多いような気がする。

 「恋愛」という概念が誕生したのは明治以降という話がドラマ内でもあったが、その話を聞いて、「え?じゃあ昔の人はヤキモチ妬かないの?」とか、「え?昔の人は、人にドキドキしなかったの!?」とか、そんなことを思う人が多いという話だ。

  勿論、数多の古い文献を読んでも、現在「恋愛」の概念の中に閉じ込められる要素はいくらでもそれ単体で登場する。

 ではまず「嫉妬」や「ヤキモチ」について考えてみよう。「嫉妬」は、恋愛の一要素として、「恋愛」という概念に閉じ込められることが多いし、最近の風潮では、嫉妬をよくすると「メンヘラ」「重い」とか言ってバカにされるクソみたいな「劣化した恋愛主義」が一般的になっている。

 じゃあ聞くが、赤ちゃんは、ヤキモチを妬かないのだろうか?

 恋愛感情が芽生えていない子どもが、親がどこか別のものに愛情を注ぎに行った時に、「寂しい」とか、「帰ってきて」「行かないで」と思う気持ちは、「何」なのだろうか?

 「嫉妬」をしている時に、「恋愛だ」と決めつけるのは、極めて浅はかである。

 僕は、他人に恋愛感情を抱かないが、とてつもない寂しがり屋なので、とても「嫉妬」をするし、不安にもなる。帰ってこないのではないかと思って、パニックになることさえある。だがそれは、「恋愛」なのだろうか。

 僕は、 人と人の繋がりを、そんな簡単な概念で括ってはいけないと思う。僕らが目を向けて考えなきゃいけないのは、「なぜそんなに不安なのか」「どんな経験をしたからか」「どんな環境で育ったからか」「どうしたら安心できるのか」といった、もっと本質的な「向き合う」ということではないだろうか。


 次に考えたいのは、「ドキドキ」だ。

 人と話す時にドキドキするのは、恋愛感情を持っている時だけだろうか。僕は、そうとは限らない。相手にオーラがあったり、素敵だなぁと思うポイントがあったり、ちゃんと喋れるか緊張していたらドキドキする。別に恋愛感情なんて抱いていないのに、ドキドキする。

「ドキドキすれば恋愛」という短絡的な話は、本質的ではない。


 つまるところ、「恋愛」という概念も、「セクシュアリティ」という概念も、たいして意味などないのではないだろうか。

ADHDなどと同じような話

 近年もっぱら認知の広がった「ADHD」というものがある。あれも似たようなものである。

 近代化以降、近代を形作った概念は、今も社会を形成する大きな役割を担っている。「人間」「大衆」「主体」「個人」「社会」「幸福」「国家」「自由」そして、「恋愛」。

「画一化」を前提とした近代日本社会では、様々な「世間的常識」なるものができてきた。その常識からはみ出てしまう人を守るために、「ダイバーシティ」という言葉がまた輸入されてきた。そのおかげで、「LGBTQ」などのように、性に関する認知はとても広がってきた。

 まだ近代の「世間的常識」に囚われている人は多いけれど、自分とは違う人や、マジョリティではない特徴を持つ人に、いきなり嫌悪感を抱いて差別する人は減ってきたのではないだろうか。人それぞれ、いろんな特徴があるということにたくさんの人が気が付くことは、生きやすい社会を創るためにとても大事なことだろう。

 しかし、あらゆる取り組みが、僕はまだ近代の中にいるように感じることがある。

 例えば「ADHD」はどうだろうか。集中力を欠いていたり、マルチタスクが苦手な人は、「自分はどこか障害でもあるのだろうか…」と思うほどの経験をたくさんする。自分は望んでいないのに、人に迷惑をかけたり、人を傷つけてしまったり、人から叱られたり、そんなことをたくさん経験するのだ。そんな中で「ADHD」という診断を貰えたり、概念を知って自認できるようになれば、精神的にとても楽になる。周りの人にも、「私ADHDなんだよね」と言えば、何かミスをしてもそんなに強く怒られなくなったりする。

 だが、しかし、そこで止まってしまう何か大切なものがあると僕は感じる。「あぁ、ADHDなのか、仕方ないね」と言われることが増えることは、その時の生きづらさを解消はするだろうけど、それが本当に望んでいたことだったのだろうか。本当に問題だったのは、自分を責める人がADHDという概念を知らなかったことだったのだろうか。

 失敗をしたり、違う方向に走って行ったときに、体を張って止めてくれたり、叱ってくれる人が減りはしないだろうか。人を駒のように扱ったり、人に役割を与えて規定する人が増えはしないだろうか。いや、それが問題だったんじゃないのだろうか。目の前の人と粘り強く寄り添って、苦手なことも一緒に頑張ろうと、手をちゃんと握れる人が減りはしないだろうか。「一期一会」という言葉はどんどん消えて、好きな人と一緒にいる、そんな人を探して人を選別して、とっかえひっかえ人を捨てていく人が増えはしないだろうか。

 あらゆる新規概念は、人の特徴の大枠を、これまでの統計上の記録から導かれた平均分析を参考にすることで、理解しやすくするためのものでしかない。

 セクシュアリティに関してもそうだ。いやこちらに関しては「恋愛」という概念の中に、さらに細かな概念をたくさん作っていっているに過ぎないので、さらに虚構的でもある。

 概念をたくさん作り続けるという所業が、我々が進んでいきたい未来を創ってくれるのだろうか。

 概念は「認識」の世界に過ぎない。非常に西欧的な自然観である。「そういう特徴の人もいるんだね。」という言葉だけが蔓延した社会で、落っことしていくものはなんだろうか。それは西欧的個人主義の自然観が成り立つ場所では、とても合っているかもしれないけれど、東洋思想の自然観が成り立つこの国では、やはり何か大切なものを見失うことになるのではないだろうか。

 何に関しても、みんなそれぞれ違う特徴や個性を持ってるのは当たり前であって、そのクセの強さもそれぞれだ。だから大事なのは、ただ、目の前の「生きている人」と「向き合える」人が増えるということに過ぎないんじゃないだろうか。それは孔子も孟子も言ってるし、東洋思想の根っこにある自然観でもある。

 概念を輸入して満足するのは、本質的には「近代」を続けているということでしかない。そして、それは確実に、我々が今住んでいる土地、自然環境に合ったものではないので、ずっと同じ問題を生み続けるだろう。その問題というのはもっと言うと、我々に「限界」をたくさん作っていく、ということでもあるのではないか。

 我々が新たな未来を思考していくときに見つめなければいけないことは、もっとその奥先の、人と人の繋がり、「いのち」ではないだろうか、、、

物質的限界と人と人の繋がり

 ドラマ「恋せぬ二人」の4話以降から問題になってくるのが、どんなに「恋愛」をしないからと言って、一度きりしかない人生で、現実的に、ある時間に向き合っていられる人は「一人」であり、「寂しさ」も感じる人は感じるのであって、さあどうしよう、と言う話だ。

 このドラマでは、「メリット」や「デメリット」などがその指針として語られている。例えば、一緒にいて自然でいられるとか、落ち着くとか、好きなものが同じとか、言語や波長が合うとか、楽しいとかとかを感じながら、誰と生きるかを考えていくような。

 そういう生き方もあるだろうが、人と人の関係における希望を、もっと奥層の「いのち」のところまで追求して、「世界の広さ」やその素晴らしさを感じにいくという生き方もあるという話をしよう。

 無論「いのち」への直覚があるパターンは非常に少ない。特にこのドラマなんかは、「メリット」「デメリット」の「認識する」世界線で終わらせるだろう。しかし、ここからは、「認識しない」世界線を守る特殊なパターンについて考える。(ここからは「認識する」世界線で生きている人には何言ってるか分からない話になっていくと思う。)

セクシュアリティを超越するいのちの繋がり

 自分のセクシュアリティがどう、とか、性的指向がどうとか、何がイヤで何なら許せるとか、そういった自分の性格や個性や経験を全て超越する「いのちの繋がり」があると僕は思っている。

 僕は、極めてアロマティック・アセクシャルに近いけれど、圧倒的な「いのちの繋がり」を感じる人がいる。

 ここで溢れる愛は、認識できない世界線の話である。「認識できる愛情」を全て抱きしめて、それもさらに「認識しない」いや、「認識できない愛」で包み込んで、あらゆるものを溶かす、どこまでも広くそしてどこまでも深い愛が、自然ととどまるところを知らず溢れ続けてしまうような、そんな繋がりである。

 例えば、セックスについて考えたい。僕も本来アセクシャルなので、他人とセックスしたいとは思わない。でもこの場合のセックスは決して性的欲求のためにするものではなく、もっと神秘的な繋がりや溶け合いを感じる「いのちの感動」としての「場」であると僕は感じている。それは何か「性的に気持ちが良い」とか「性の相性が合う」とかそんなことは全くどうでもよくて、「いのちが溶け合う」というだけの瞬間でしかないのだ。

 これについては体感したことのない人には絶対に分からない世界線であろうし、「認知」する範囲を大幅に超えたもっと非言語であり、表現不可能な世界線なのである。

 そこでは「セクシュアリティ」とか「個性」とか「生来の特徴」などは完全に無力化して永遠に守られる安心感と共に溶けてしまう。その感動と圧倒的に爽やかな晴れ渡った世界は、「全」を感じる瞬間でもある。

 「全から一、一から全」を大事にしてきた日本文化を見ても分かるが、われわれに生来合っている自然観は「認知しない世界」を追求して、その中から見える圧倒的な何かではないだろうか。そしてそれが、この社会で生きる息のしにくい人たちや心のどこかに虚無を感じたり、自分の存在そのものを愛せない人の本質的な希望になるのではないかと僕は思っている。

 けれど、事実、いのちを直覚できるほどの人と出会うことは、ほぼ「無理」に等しいので、同じような人間関係を求めることを僕は勧めたりはしない。でも、そのくらい奥深くのところまで心を広げて、人と関われる人が増えてほしいと願っているし、自分自身が感じて見えた何かで、人を包んでいきたいと思っているし、いのちそのものを肯定する感動を伝えたいとも思っている。

 これからもたくさんのマイノリティのための概念が誕生してゆくだろうし、それはとても「幸福な世界」を創るのに貢献すると思うんだけど、そこに埋もれていていいのかは、あなた自身、そして僕自身も、真剣に考えている必要があると思う。

 本当に大切なものはいくつあってもいいし、愛するものもいくらあってもいい。それでも、取っかえ引っ変えいのちを消費してゆけば、それ相応の感動しか生まれないものである。

今この世界で苦しんでいる人の奥底のところまで、あなたは抱きしめられるだろうか。

 そんなことを、僕は問うていたい。



 僕は、大切ないのちを、守っていたい。 



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