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自傷行為の豊かさが救いである時に、どこまで「楽しくなるかもしれない自傷行為」をできるかが、財産になります、とか、気持ち悪。哀しい話をしよう。

 死を渇望し、生命に拘りが無く、欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている。一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、その日のうちにその半分を吐き出してゆく。

 以前は、パニック障害のような症状で、自傷行為に至っていたが、最近は、物凄く晴れやかな心と、清々しい気持ちで、自傷行為を捉えられるようになった。

 パニック障害的に自傷行為をしていた頃は、ほぼ記憶が無い。聞くと、髪を引き抜こうとしたり、頭を殴ったり、ベルトで首を絞めようとしたり、そんなことをしていたみたい。ずっと寄り添ってくれたいのちがあったから、僕の心臓はまだ生きている。本当に申し訳ないことをしたという思いも、また生きる理由になっている。

 今はもう全くそんなことをしない。もう完全に治ったからだ。常に正常な心と脳みそで、日々の地獄を生きている。

 最近は、あの頃よりもずっと、死を心の底から望むようになった。

 はっきり言って、いのちを直覚した身としては、いのちのない日々は、常に本質的なつまらなさを孕んでしまっているし、たいしてそんな中で生きてる理由もない。

 まず、「眠ること」そのものが、自傷行為化してきている。眠りの中で物凄く傷付く。どうしようもないけれど、眠ることそのものが、自分を傷付けることなのだ。有難い話だ。

 次に、「食べること」そのものが、自傷行為化してきた。どんなに美味しい食べものも、8割の美味しいという喜びと、2割の吐き気を孕んでいる。勿論、「美味しい」と言ってたくさんたくさんものを食べてみるし、美味しいことに変わりはない。だけど、吐きたくて仕方ない。食うことが申し訳ない。だいぶ拒食の人の見てる世界に近いものが見えるようになってきたんじゃないか。

次に、いくつかの土地にいること自体が地理的に自傷行為化し始めた。例えば、とある「県」にいると、物凄くしんどくなってきて、脱出したくなる。まぁもはや、地球が嫌いになりつつある。ちょっと厳しい。めんどくさい。

 楽しい空間では痛みが伴いそうなことは気付いたら進んでやっている。こうなると、どう面白い自傷行為に手を出してゆくか、みたいな好奇心が出てくる。或いはリスキーなことをやるハードルがものすごく下がった。

 だが、「傷付くこと自体にオナニー的な気持ち悪さがある。」という劣化した箱の思考を飛び出て、層化した世界の中でたったの独りでいのちを守ることは、もっと清々しくて爽やかなものなのだ。手触りのある必死な生を、捨てないように、なんとか、やるのが、つまり自傷行為のような形。もはや、生きてること自体が、自傷行為なのだから。

 「面白い自傷行為をしたらいいんじゃない?」という損得に基づいたアドバイスは気持ち悪いけど、確かに一理ある。だから、とりあえず、色々やってみよう。

 苦しみを和らげることに何の悦びも感じない。


 ただ、いのちを守るために、できることを、やっているしかない、それだけなんだと思う。


 


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