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今後は「‪(カッコ付の)‬諦め」と諦めを区別して使おう. 「諦め」∋ 諦め , 即是 , 諦めの気化.

常に思うのはこれ.

何にも諦めるな.
そして時にちゃんと諦めて前に進め.

風景をそのまま話し合える人には通じるが、ほとんどの人には「え?どっちなの?」といふことになる。

ここにおける諦めは、2つの全く逆の意味を持つ。

その区別をしてから書き直すならこうだ。

何にも諦めるな.
そして時にちゃんと「諦め」て前に進め.

カッコ付きの「諦め」は、言い変えるとこうだ。

「溶かして、抱きしめて、気化させる。」

そして、カッコの無い諦めは、通常一般でよく用いられている、近代の延長を生きる人々が使う諦めという言葉そのままである。

3D平面世界を生きている人々にとって、触れられるものは平面に並んでいるので、何かを「選択」すると何かを「諦める」必要が出てくる。

 つまるところ、この概念は、3D平面世界を生きる人々の認識論的な話をしていてようやく生まれる概念であり、非常に近代的であり、それは味わい深い「嗜み」として人々に愛されているものではまったく無い。

「プラスへの執着心」から生まれる何か残念なものとして捉えられ、デジタル的な理解に留まる。これをカッコ無しの諦めと呼ぼう。

つまるところ、

「諦め」∩ 諦め=∅

或いは、

「諦め」∋ 諦め , 即是 ,  諦めの気化

ということができる。

このように概念を整理して、

もう一度初めの言葉を言おう。

何にも諦めるな.
そして時にちゃんと「諦め」て前に進め.

世の中に諦めていいことなんて何一つ無い。

貴方などこの世界の
切れつ端に
すぎないのだから
貴方など懐かしい
切れぎれの誰かや何かの
寄せ集めにすぎないのだから

みぎてのうた

だが、もし時にこれは諦めなきゃいけないと思うことがあったのなら、1度立ち止まって思い出して欲しい。

諦めんじゃない。諦めんじゃないよ!

「諦めろ!」

「溶かして、抱きしめて、気化させろ!」

もしもそれができないのなら、それは貴方のいのちが、泣いている証だと僕は思う。

それなら今ある環境、信じていること、それら全てが、貴方のいのちを隠し、可能性を奪う道具になっているかもしれない。

もしかしたら、「諦める」べきは、「溶かして、抱きしめて、気化させる」べきは、そちらなのかもしれない。

前に進むといふこと。

それは、諦めることじゃない。

前に進むということ。

それは、何かの「選択」を捨てる痛みを受け入れた気になって認識的に満足することじゃない。

前に進むということ。

それは、「諦める」ことができるものをちゃんと嗅ぎ分けて、「諦める」ということだ。

前に進むということ。

それは、「溶かして、抱きしめて、気化させる」ことができるものをちゃんと嗅ぎ分けて、「溶かして、抱きしめて、気化させる」ということだ。

無論、君がどれほど認識論的に気化させることができても、実態として気化し輝くはずなんてない。そんなオナニズムは前に進むどころか君を後退させ、君の可能性を奪っていく不誠実さの塊である。

ちゃんと向き合って、溶かして、抱きしめて、気化させることができるものと、そうでないものを、嗅ぎ分けて、そして生きろ。

前に進むということ。

そこに勇気なんてほとんどいらない。

いのちの感覚器が残っているのなら、誰だって嗅ぎ分けられる、風さえ吹けば。。



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itsuki minamiが今感じていること見ている景色を純度の高い状態で綴っています。 Will, a fleeting memory …

大丈夫.