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内と外、自と他、生と死、生命と魂、いのちの直覚。映画「万引き家族」から想ふ「圧倒的父性の可能性」

 ふと、疑問になることが、たまにある。

 何故ここまで数多のドラマや映画の中で、大切なことが示され続けてきているのに、人々はまるで他人事で、そこに出てくるクズ役としての自分に気が付かないのだろう。

 どうしてこれほどまでにクズばかりの世界で、こんな素晴らしい作品の評価が「高く」なるのだろう。

 人々は、何を見、何を感じているのだろう。

 法の奴隷は、これを見て、どう思うのだろう。

  不思議だったので少しレビューを見てみた。

血の繋がりはなくてもちゃんと家族なんだなって思った。
家族は血のつながり?
なんかそんなんじゃない気がさせられる。
自分は幸せに生きてきたんだなー。
色々考えさせられる良作でした!!
大人がだれもちゃんと責任を負わないで子供が振り回されるの本当にこわい
幸せだったし、間違ってもいた
ほんとうに、なにかが明るみに出る時は一瞬だな

この映画を評価してる人の多くが、言葉の自動機械から逃れられない沼の住民だとよくわかる。「幸せとは何か」とか、「家族とは何か」とか、認識する世界の中で思考することこそがクズであり、彼らはもうそれ以外の全なる何かを追うことはできないのだろう。


 こちらの宮台さんの評にも書かれているが、クズの沼の住民と、もっと奥を追ふ人の、絶対に追いつかない関係性が、象徴的に描かれているシーンがある。

 捕まった「母親」と、刑事のやり取りだ。


刑事「死体遺棄っていうのは重い罪ですよ?
分かってる?」

母親「捨てたんじゃない。」

刑事「捨ててるじゃない。」

母親
「拾ったんです。

誰かが捨てたのを拾ったんです。

捨てた人っていうのは、
他にいるんじゃないですか?」

 人を捨てるとはどういふことだろう。

 例えば、ある人に子どもができたとする。
 その子どもが、自分の存在価値が分からず、死のうとし続けたとする。それを親は、ずっと抱きしめて、「貴方は本当に本当に、生きているだけで、本当に大切なの。ありがとう。生まれてきてくれて、本当に、ありがとう。死なないで。死ぬなら私も一緒に死ぬから。貴方がいない世界で生きている意味なんてない。」と伝えて、生命を守り続けたとする。
 その親に、2人目の子どもができた。
 そして、1人目の子どもが、また死のうとした。すると親はこう言った。「たしかに。死ぬことも、人の大切な選択肢の1つだよね。そんな簡単に、奪っちゃいけないよね。」と。
 それ以上、その親は、もう何も言わなかった。
 ただただ、2人目の子どもを愛し、また同じように、「死なないで。死ぬなら一緒に死のう。」と伝え続けるのだった。

 認識する世界の沼で生きる法の奴隷である刑事と、母親はまったく別次元を感じていて、対話は成立さえしていない。刑事は母親の次元を想像も理解もできない。だが、母親は、この刑事がどのあたりの次元で話しているのかが楽勝で分かる。

 次のやりとりはさらにそれを強調する。

刑事「子どもにはね、母親が必要なんですよ。」

母親「母親がそう思いたいだけでしょ。」

刑事「ん?」

母親「産んだらみんな母親になんの?」

刑事「でも産まなきゃなれないでしょ。あなたが産めなくて辛いのは分かるけどね。羨ましかった?だから誘拐したの?」

母親「・・・、憎かったかもね、母親が。」

刑事「子ども二人は、あなたのこと、なんて呼んでました?ママ?お母さん?」

母親「・・・なんだろうね、なんだろうね、」

 きっと、クズ沼の住民は、これを見て、「産めなくても母親になれるかもしれないし、子どもを産めない母親の苦しみも、みんなの関係性も知らないくせにこの刑事は何を言ってんだ。でも、確かに倫理的に“正しい”母親は、子どもには必要なのかも。」とか思うのかもしれない。

 しかし、このシーンの本質は全く全く違う。

 まず、会話をしているようにみえるが、ここにおいて対話は全く成立していない。 

 刑事は「世間」や「一般常識」や「幸福」や「普通」という標語で表せるだろうが、母親はそがいなものとは諦めて対話をしたくもないはずだ。だのに、社会構造の中で崩されゆく万引き家族の実情があるため、対話のできない相手(対話ができてると思ってる相手)と「生命よりももっと大切な何かを共有したもののために」対峙せざるを得ない状況で生じる、とてつもない痛みを、母親が味わっていることに本質がある。

 もしも、このシーンを見てそこまで辿り着いていないなら、貴方はクズ沼にハマってるのだろう。


 認識する世界と、0.1の計数的に機械やアルゴリズムが認識できる世界の沼で、肯定ループに入ったクズたちは、平生このような悪をたくさん作っている。

 家族が捕まった後のシーンでテレビキャスターが家の前でこんな発言をする。

「家族になりすましていた人たちが、一体何を目的にこの家に集まっていたのかは、未だ謎に包まれたままの状況です。」

 もし、この「事実」が言葉や図で解説され、0.1の情報となって電波にのってたくさんの人に伝わったとして、格納され圧縮された情報zipファイルを、本質へ展開できる人は、まずいない。

 さて、「法外」においては、「どうすれば生きられるか=realism」は「世界はそもそもどうなっているか=ontology」を踏まえねばなりません。さもなければ生きられないからです。ただし世界とはありとあらゆる全体です。だから部分である私たち人間に全体が姿を現すことはありません。そのことは「なぜ世界が存在するのか」と問えばすぐに分かることです。
 この問いに答えが存在するなら、答えは世界の部分ですから、「世界という全体」が「答えという部分」に対応することになります。これは背理です。世界が存在するなら理由を問えるはず。なのに理由を問えない。ということは、世界は(認識できないのではなく)存在しないのです。これは「新しい実在論」を提唱するマルクス・ガブリエルの有名な論法です。
 にもかかわらず私たちの振る舞いは「常に既に」ontologyを先取りします。なのに先取りされたontologyを私たちは示せません。規定不可能だからです。AIはどうか。人による初期入力を前提としたビッグデータからのディープラーニングという「疑似ontology」はありますが、それはいつも部分に留まる。つまり全体を先取りするontologyがないのです。
 だから非常時に奇跡の振る舞いを見せる「真実の瞬間 the moment of truth」もありません。

 ここからは、クズにクズと言うことのつまらなさについて書きたい。

  無論、クズはクズになりたくてクズになったのではない。生来クズなやつはいるのかという話になるとややこしいが、間違いなく環境作用でクズ沼にハマった尊い生命は計り知れないほどいるだろう。

  ロシアやウクライナだけが戦争をしているのかといえば、同じような構造は平生我々の間でも起こり続けている。戦争は終わらない。

 しかし、その連鎖を断ち切るために必要なのは、きっと、プーチンにクズと言うことではないし、プーチンにクズと言う人をクズと言うことでもない。

 クズのクズさを溶かすほどのいのちの直覚を得た人が、それをたったの1人でも守り続けること、そんな人が増えることではないだろうか。

 松岡茉優演じる亜紀(さやか)は、取り調べが終わった後、またあのお家に戻った。その後どうなったかは劇中には描かれていないが、刑事に、おばあちゃんが実親から本当はお金を受け取っていたことを聞いた後の彼女の行動こそ、ここから吟味しなきゃいけないことではないだろうか。

 その事実を告げられた後に祖母の遺体が発見されるので、亜紀が遺体の場所を証言した可能性は高い。しかし、亜紀は、その後、また、あの家に戻ったのだ。そしてそれ以降亜紀は出てこなかった。

 もし、亜紀が、祖母との間に「生命を超えた全なる何か」を直覚していたとすると、刑事に事実を言われた時は、「裏切られた」気持ちを持たざるを得なかっただろう。

 しかし、重要なのは、それでも「裏切る」とかなんだとかクソどうでもよくなるほどの圧倒的父性で、「生命を超えた全なる何か」=「永久を孕む真」=「いのち(非生命)」を亜紀が守れるかどうかではないだろうか。

 亜紀は強い。きっと、彼女は、その先もそれを守り続けたんじゃないだろうか。

 そんな圧倒的父性を持ち、たとえ何があろうと風を吹かせられる人が増えることこそが、希望なのではないたろうか。

  僕らはきっと、クズにクズというのが仕事ではない。クズがクズに生を破壊され、いのちを直覚した時、たとえ何があろうとも、「それを守れ。貴方は希望だ。」と、伝え続けることが仕事なのかもしれない。

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