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客体に愛される喜びは、ある一定ラインで停止し、朦々に続く。

 客体に愛される喜びは、逆説的にある種自慰行為的である。

 より分かりやすく、欲望が満ちる感覚に繋がりやすい。煌めきは、甘ったるいグミを食べているような癖を孕み、辞められない止まらないかっぱえびせん状態になる。

 彼らは客体を愛することを「利他」といふ名で呼び始め、またキラキラした正義感に逆らえない自慰的欲求基づいて、意思的に人やペットを愛してゆく。

 添加物を食べたり、農薬の過剰利用をするのと同じような話で、今生の幸福やウェルビーイングを掴み取るためにはなんら非倫理的ではない。短期的なエコシステム全体や人類の歴史の観点から見れば、それは非倫理的な行いかもしれない。だが、さらに長期的な宇宙規模、非人間的、自然的観点から見れば、もはや貴方の行いは全て自然の一部、運命とすることもできる。

 どんなに彼が毒牙に侵されようが、上記のような認識論的思考の上では、どちらでもいいし、どうでもよい。

 少し話が逸れたが、客体に愛される喜びは、認識論的な沼の中でよく頂点として語られる。そこに執着しているうちは、ある一定以上、君の愛も、悦びも、いのちが放つ豊かさも、全く解放されない。

 ある種の人工物としての愛は、あなたの人生に社会的幸福をたくさん導くかもしれない。その豊かさや、素敵さを、安易に否定するのは甚だ筋違いだ。

 そうしたものたちの美しさ、素晴らしさに涙を流しながらキスをして、愛でて先に、見ゆる太陽の光を、さぁ浴びよう。

 だが、君には太陽の光も、一輪の花も、空を舞う蝶も、全なるいのちの輝きは、全く見えやしないのだろう。

 そこに映るは絵画的煌めきと、喜びに満ちた幸福感が創り出すデジタルスクリーンに映る3D世界なのだろう。

 主観に映る幸福な人生と未来にワクワクしながら、旅をして、逝く日を忘れる。


 時折、均一化された植物や添加物の入った甘いお菓子の、気持ち悪さやつまらなさに気が付いてしまう感覚器を持った人がいる。そうした人にとっては、次の疑問が無意識下の灯になる。

 では、太陽の光は、一輪の花は、空を舞う蝶は、どうしたら見えるのか。

 だが、その感覚器さえも、認識論的な沼の中では他のものと同じような作り物に見えてしまう。或いはその真実性に気が付くことは、これまで自分が作り上げた構造物としての「自分」やそのポジショントークに関わるステークホルダーたちを破壊する危険性があるものなんだと無意識下で察知し、どんどん隠し、壊してゆく方向に人生の時間を使い続ける。


 もはやそうなると、

 認識論的な幸福に埋没して取り憑かれた人間の主観の融解と超越は、風の到来と父性ある存在の手助けでしか起こりえない。

 風が吹くかどうかは、誰にも分からない。

 誰にも分からない。

 だけど、僕らは、その準備をすることはできる。 

 私にとって生きるとは、或いは死ぬとは、ただそうであるものを、ただそうであるように、ただそうであるだけである。

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