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村田さんの試合を見て、いのちへの感謝を想ふ。

 村田選手は、ゴロフキン選手との試合を終えて言っていた。


 「こうしておそらくは2人とも無事にリングを降りられること、神様に感謝します。」


 きっと、侍の心には、「生命」よりも大切なものが存在していて、ほぼ敵わないと思っていた相手にでも、勇気を持って挑めるほどの奇蹟を起こした。

 勝つとか負けるとかのその先に、一体何を見たのだろう。強くなりたい。強くなりたい。根源的な生物の自然が舞い戻る感覚なのだろうか。

 それでも、終わった暁には、人間らしく、優しく、「皆が喜んでくれる試合をできたことがなにより」と語った。


 「生命」を守り、「生命を超えた感動」=「いのち」を踏みつけてグチャグチャにしていく人が、「生命に感謝」する何億倍もの感動が、

 きっと、「生命を超えた感動」=「いのち」を守った人の、その先には溢れ出てくるんじゃないだろうか。

 最低な人間の、「生命への感謝」は、ある一定以上行かないのだろうし、趣も父性も、ある一定以上行かないし減少してゆく。そういう人間は、本質的に遥か彼方まで通底する魅力や感動を絶対に作れないし、ある一定以上人を愛することもできないのだろう。

 それでも「同情」に取り憑かれた人間は、自分ではどうする事も出来ず、ただ最低な人間としての自分を肯定するためだけに、言葉だけが達者になって、どんどん空っぼになってゆく。

 僕の妻がまさにそうなって行っているのが、目に見え過ぎて、僕はとても苦しいし、哀しいし、悔しい。

 ぼくの、伸ばした手も、伝えたかった「全」も、全て「認識論」で真実とはかけ離れた玩具に規定され、破壊されてしまった。

 向き合うことをやめた人間は、これからもきっと見たいものだけを見て、この世界のどこかに自分のせいで傷ついている人がいようとも、何も気にすることなく、幸福な笑顔で笑って、ガチガチに周りを固めて諦めて生きてゆくしかないんだろう。

 言葉の自動機械となり、クズ化した心と共に。


 生命への感謝も溢れ出ない。

 あらゆる感動も、溢れ出ない。


 ただ、ガチガチになって、気が付いたら、

 めっちゃくちゃな笑みと、

 幸福ホルモンが出るようにアルゴリズム化された脳と感情を爆発させて、

人生を終えるのだろう。


 絶対に侍になれないし、親にもなってはいけない数多のクズの一人になった人に、僕はそれでも、圧倒的な愛と居場所を創り続ける。

 生命の灯の糸が、プツッと切れるその時まで。

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