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「祈る」の意味は、「書く」ではなく、「言う」でもなく、「祈る」な気がする日々の果て。

「ご冥福をお祈りします」という文字を打つ人、書く人、言う人よ、、、なら書かかずに祈ればいいのに、、。

予測変換で文字を打つな。

「心が痛む」と書くな。痛め。

人の死を承認欲求で利用するなよ、、、

君の隣にいた人が自殺したら、君は祈るのか?

君は人を殺さないのか?

SNSとここまで無思考に感情や思考が連動してるのは、本当に奇妙だ。SNSに「遺憾です」とか、「お祈りします」とか、「悔しい」とか、「悲しい」とか、、わざわざ無表情にポチポチ指を動かして「投稿」のボタンを押す人の大半が、「いのち」に向き合っていない人たちなのだろう。

そもそも貴方の感情なんてそんな言葉で表現し得るものなのか?そしてその不完全なものを不特定多数に発信することが、貴方がしたかったことなのか?いや、もはやもう、言葉にできるほどの感情しか持っていないのかもしれない。

無論、それ以外の人もそうだ。大半が、自分が殺したかもしれない人のことなんて気にもせずにニヤニヤ笑って生きてる人たちで、そこに関心も興味もないのだろう。

死んだ瞬間に掌を返す人の気持ち悪さ、またそれに気持ち悪いと思ってそれをSNSに書く人の気持ち悪さ、そしてそのSNSをわざわざ見て気持ち悪いと思う人の気持ち悪さ、、、。

昨日も、今日も、そして明日も、この世界の片隅で、人は死んでいく。自然死以外も数多ある。誰が殺した?私ではない誰かか?私か?私を育てた親か?君か?君をそんな人間にした環境か?さぁね。

そんなもの、全であって、それ以下ではない。

昨日の程、衝撃的な出来事が起こり、世の中の数%〜数十%の人々がここ数年でどれほど感情が劣化し、認識論の中でいのちを喪失して自己を確立したかが、浮き彫りになった。

君のいのちを、守ってくれる人はもういないのかい。生命を落としてでも、生命を奪ってでも、いのちを守った侍は、私たちと同じ人類であった、、。倫理は変化する。だが、層化した世界のいのちの灯は、遥か永遠に変わらず灯っている。


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