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首吊り自殺をする人と、見つける人と、させた人と、させた人を育てた環境と、した人の心の弱さを指摘する人と、自分はそのどれでもないと思う人々と。

世界の片隅で、誰かが今、この瞬間も、首を吊ろうとしている。

ほら、また、

いま、

人が死んだ。

もしかしたら、世界の裏側の誰かかもしれないし、もしかしたら、貴方の家族かもしれない。


誰かが首を吊れば、

それを見つける人がいる。

それが、その人の「希望」「だった」人かもしれないし、その人を自殺に追い込んだ張本人かもしれないし、全く知らない人かもしれない。


誰かが首を吊れば、

その人をそこまで追い込んだ人がいる。

それは、その人の「愛する人」だったかもしれないし、その人の「愛する人」の周りの人だったかもしれないし、全く知らない人かもしれない。


誰かが首を吊れば、

その人をそこまで追い込んだ人を育てた人がいる。

それは、追い込んだ人の「愛する人」だったかもしれないし、追い込んだ人の親かもしれないし、全く知らない人かもしれない。


誰かが首を吊れば、

その人の心の弱さを指摘する人がいる。

それは、その人にとって死ぬことがどれほどの「希望」だったのかを知らない人だろうし、それほどの苦しみを味わい続けられない人なんだろうし、死ぬ勇気を絶対に持てない人でもあるんだろう。


誰かが首を吊れば、

そこには色んな人が絡んでいるという話をする私みたいな奴がいる。

その話を聞いて、自分はそのどれでもないと思う人が、実は大半でもある。

「幸せ」の渦中にいる人は、それを否定されるのも壊されるのも本当に怖いし、その中に閉じこもって生きたいと思うだろう。(というかそう思わざるを得ない状況まで入り込んでいる。)

そしてそういう人は、たまたま、首を吊る人が周りにいなかったというだけで、本質的な苦しみの原因を探ることも無く、結局、死んでゆく。

死んでゆく。

そんな自殺方法を選んだと言ってもいい。

どっからが自殺で、どっからが自然死なのかなんて、見る角度とスケールで、全く変わる、どうでもいい話。

大切なのはそんなことよりも、「今」、あなたは、首を吊る人ですか、誰かを首吊りに追い込む人ですか、その人を育てている人ですか、首吊りをする人の心の弱さを嘆く人ですか、そのどれでもないとほざく人ですか、そして、あなたはそのどれでありたいんですか、という質問の自問自答に過ぎないはずだ。

認識論の中で泳いでいる人は、もう、何もできない。いのちは絶対に救えない。

自分の苦しみを正当化することしか、永遠にできないし、正当化してくれる人としか、共に歩めない。

誰一人取り残したくないとか言いながら、都合の良い人を取捨選択し、結局あらゆる世界を無視して、都合の良い世界だけを見て、歩む人間と、

愛する人や、「ほんとう」を守り続けるために、死んでゆく人、

もうその全てを並列に並べて、

ニヒって、自分を守る人、

震え続けながら、

いきるひと。

誰かを責めるクズになるか、

連鎖を止める圧倒的な

認識しない世界を追求する人になるか。

そんな意識が、ほぼ皆無な、世の中で。


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