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二次元の「全」と, 元来の「全」についての話.

感情が豊かな人などに、僕は「人間っぽいなぁ」とはあまり思わない。どちらかと言うと、論理と知恵で感情を生み出している感じの人に、すごく「人間っぽいなぁ」と思ってしまう。ここでいう人間とは、近代概念の人間である。

例えば、日本文化に関心のある人でも、趣の欠片もない人がいる。例えばその人が「一から全」に広がってゆくような詩を詠んだとしても、それは物化などしない。

これはただ言葉の使い方がうまい、表現が上手い、に過ぎない。官能小説のようなものだ。

こういったものの「広がり」は、常に平面的であり二次元的である。例えるなら、壁に、風景の小さな機微を小さな文字で書くとする。

「笹の音」

その文字を見て、想像が、世界が、広がってゆく。それは、壁に書いた小さな文字を中心に、ふわぁぁっと風景が壁に描かれて、どんどん広がって、見えぬところまで描かれてゆくような、そんな広がりだ。

決して、同じコンテンツが好きだからと言って、本質的に君と同じ層化した世界(若しくは3D平面世界)を感じられるとは限らない。

「面白い」だが、あまりにも「つまらない」。

次元が違いすぎるので、こちらは相手のことを簡単に理解出来ても、相手はこちらの世界を感じることは出来ない。

二次元の「全」に囚われていては、ある一定以上の感動も、いのちの悦びも感じられない。

テクノ的全。メタル的全。jpop的全。イズム的全。認識的全。要するに人間的全。全然全じゃない全。


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