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鎮まるまちに

先日改まった感じで
『あなたはこの店をどういう方向にしたいって考えているの』
と聞かれた。

わたしは『何かがしたい人』では無く
『あるがままでいたい人』だ。
あるがままでいたいからやっていることが、人から見れば
「何かをしている・したい人」に見えることもあるだろう。

わたしは「わたし」で暮らし、一生を過ごしたいとしか考えたことがない。
その軸で『店』という場を「どうしたいか」という欲求は

ああ、ほとんどないんだよな、と改めて思った。
あるがままでいられるように、店もそうやって変化させていくことはあっても
『こういうお店が良い!』という野心はないのだ。

友人に「何かができる人だから、一緒にやろう、とか、大きなプロジェクトのために、一緒に!とかじゃないんだよね。」
「気が合う人、とか、そこに揃った人や道具で『じゃあ何か出来るかな』と
進んでいくことが必要なんだよね。」

と説かれたことを思い出した。
そうなのだ。まちも、店も、わたしも、「こうありたい」が軸であって
他の店、地域、人を目指したり、目掛けたりして
行動を起こすことは「不自然」な気がする。

もちろん模倣とか、見様見真似、とかも必要な場合はあるとは思うが
ピントがどこにあっているかはやはり「自分」が「あるがまま」であってこそ
きちんと合うものなのだろう。

『どうしたいの』と聞かれたとき、わたしは最初に
この店が置かれているこの周辺の人々のことを思った。

日常を紡ぎ、毎日を暮らしている人々。散歩したり、働いたり、掃除したり、遊んだりしている人たちがいて、卯之町はできている。
日常をつくりだし、風景を一緒に作ってくれている、そんな気持ちで
「ああ、今日も毎日を送ってくれてありがとう」と思っている。

そこに持ってきて「町おこし」とか「インバウンド」だとか
非日常は、正直言ってわたしの中の「あるがまま」からはかけ離れた存在だ。
今のところ。

街を興すこと、よりもただ淡々と「鎮まる」方法を持っている方が
まちとしては魅了があるなあ、と思ってしまう。
ご機嫌を自分で取れる、自分の「あるがまま」を知っている、そんな街。

そんな街だからこそ、ここで暮らしていたい、働いていたい、とわたしは思う。
鎮まる方法もわかっていないのに、騒いだり、他と同じような何かをしても
虚しいだけである。

鎮まることは決して、閑散とすることや不景気なことではない。
足るを知り、自分に向き合えている、軸のある形だと思う。
経済や人の動き、メディアやSNSでは測れない魅力だ。

「鎮まるまち」「あるがままの店」
とてもいいな、と思う。

わざわざ何かをする、ということが必要な時もあれば
そうでない時もある。
ただ、いろんな状況において
立ち止まったり、鎮まることができる、そんな店でありたいな、と思う。

今日はそんな感じです。

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