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紅い色をしている

生きている、と感じる色はどんな色だろう。
日々薪を燃やし、米を炊いていると忘れてしまうのだが
燃料となる植物だって「生きている」ものだ。

チェーンソーでおがくずを作って燃やしやすくしているが、
そのおがくずがあまりにも生き生きと紅く見えた。

「血の色みたいだ。」

そう感じた時、幼い頃の思い出が蘇ってきた。

私はキリスト教の幼稚園に通っていて日曜日も礼拝に参加していた。
歌を歌ったりすることも本を読んだりすることも好きだったが
園長先生の物語を聞く時間が一番印象強い。
イエスキリストのエピソードをお話ししていただくのだが、
時には人間に限らず動物に対しても奇跡を起こす。

私は小さい頃からディズニーの白雪姫やシンデレラ、眠れる森の美女を見て育っているので「動物とコミュニケーションが取れる、すごい!ときめき!」という憧れがあった。

人ではないものと心を通わせる、というのは今でも胸が熱くなる。
ジブリが好きなのもそういうポイントだ。肩のりする小動物、今でもときめく。

「ムネアカドリの赤はイエスキリストの薔薇の冠を外そうとしてついた血の色だ」

というストーリーがとても衝撃だったのをよく覚えている。


血の色は苦手だ。見ているとふっと気が遠くなる。

赤いワインも時々「血液なのだ」というキリスト教のフレーズを思い出してしまう。

赤は苦手な色だ。

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幼稚園の入り口からずっとカイヅカイブキの並木がある。
父が通っていた半世紀前からそうらしいのだからなかなかの大きさになっている。

もちろんわたしが通っていた頃もあった。
ちょうどいい細さと高さで、木のウロがあって足がかかる。

運動神経の良い子はどんどん上に登っていったのを覚えている。

カイヅカイブキがある風景は私達園児にとっては当たり前だった。

ある時園庭に出て遊んでいた時、カイヅカイブキのウロの中が少しめくれていたのを友達たちと見つけた。

「木の下ってどうなってるんだろう」
子供の好奇心は時に残酷だ。

私たちはめくれている皮をめくってみよう、と思いついた。

指や爪でどんどん剥がして、その辺にあった枝や石で木の表皮を突く。

木はみるみるうちに表皮が外れ、生木が現れた。
それと同時に生木にじんわりと紅い色が浮き上がった。

「これは血ではないか」

なんとなく嫌な気分になってきた。
周りの友達はうふふ、うふふと笑いながら木の皮をめくるのをやめようとはしない。

わたしは、もうやめようと言う勇気もなく、かといって「大人に叱られる」という勇気もなかった。

そのうちに園長先生に見つかった。

なんとなく怒られる気がして「見てみて!これ血みたい!すごいでしょ」
とおちゃらけて言ってみた。内心ブルブルしていた。

自分でもまずいことをしている、という自覚はあった。
普段は優しい園長先生ならなんというだろう。

怒るだろうか、大声を出すだろうか。
身を固くして構えていた。

すると先生は大声を出すわけでも、怒鳴るわけでもなく
とても低い声で

「これは木が生きている証拠です。私たちと同じ、何も変わりはない。
木にもこうして血(溶液)が流れていて痛い、ということです。」

と言われた。

大きな声を出されたり、叩かれるよりもずっと

ズーンと頭に響いた。

言葉を交わせない生き物、動物でも植物でも、生きている。

紅い血が流れている。
それをわたしは弄んだのだ、ととても心臓がバクバクした。

わたしは先生のお話の何を聞いていたのだろう、どうしてこんなことをしてしまったのだろう。

と悔いた。

怒られるよりも叩かれるよりもずっとずっと辛かった。
なんてことをしてるんだ!と園長先生に怒られたり

木に噛まれる方がずっとずっとよかった。

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木は話せないし、こちらに訴えてくることもなく、淡々と受け入れるだけなのだ。

話せない生き物と私たちは渡り合って生きている。
そのことを日々感じることは難しい。

「毎日火を起こすために、わたしは命を燃やしているのだ」

と木の表皮の赤さをみて思い出すくらいだ。

木材になった木から樹液が伝うのを見ると

「ああ、木は眠っているだけなのだな」と思う。
人間のいいように形作り、住みやすいように使われ、朽ちていく。

紅い色は苦手だ、でも、みると「生きているな」と感じる。
時々は忘れて、時々は思い出したい。

わたしにとって赤はそういう色だ。

幼稚園のカイヅカイブキはまだまだ大きくなり続けている。

幹は太くなり、もう大人でも登ったりするのは難しいそうだ。
植えられた場所で淡々と生き続ける。
カイヅカイブキはあの傷も受け入れてまだ伸びているのだな、と思った。





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