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日課とスマートフォンと私

「日課」とはなんだろう。

日課:
毎日決めてする仕事。また、毎日割り当ててすること。                                        コトバンク【デジタル大辞泉】より


唐突に、スマホ無しの生活に

スマートフォンが、ある事情により一旦手元から消えた。
連絡手段として、家の電話回線があるのでとりあえず緊急時は困ることはない。

この数日、手元にスマートフォンが無いことで
「日課」に何となく変化があったように感じた。

振り返ってみようと思う。

✴︎✴︎✴︎

【スマートフォンがある場合】

目が覚めて、布団でひと通りSNSの通知や連絡を確認
そのあとスマートフォンを片手に居間へ移動
朝の支度をし、合間にスマートフォンで記録や発信
(朝の豆乳ドリンクを作るので、それを記録がわりにSNSへ投稿していた)
子供の送り迎え
帰宅してスマートフォンチェック
アイパッドの作業(無い時もある)
合間にスマートフォンチェック

そのあとの活動も、合間合間に
スマートフォンチェックが入る。

自営業の店で働いているので、発信することもしばしばあるが

どちらかと言えば

スマートフォンから情報を「インプット」することの割合が高い。


スマートフォンでネットサーフィンは常時やっていた。

✴︎✴︎✴︎

ここ数日、本当にまだ日数は経っていないが明らかに

手持ち無沙汰さが凄い。

つまりは

スマートフォンが私の時間をそのくらい埋めていたのだ。

言葉としてはなんとなく違和感があるが、

スマートフォンは私の日課になっていた。

そのことをどう捉えるのか。

✴︎✴︎✴︎


佐々木典士さん著

「ぼくたちは習慣で、できている」

では日常の中に潜む「トリガー」「ルーチン」そして「報酬」について書かれている。

人の行動には、パターンがある。

なんらかのトリガーがまず活動のスイッチとなる。
そこから自動的に活動に移るルーチンが発生する。

このルーチンは「ほとんど考えずに出来る」活動だ。

活動の結果として得られる報酬があり、終了となる。

もしくは次のトリガーへ移ることとなる。


人の行動には
トリガー→ルーチン→報酬→トリガー…
のパターンが存在している。

報酬が発生することで、
脳は「この活動を保存するか、どうか」を決めているのだそうだ。
行動し、報酬(快感)が得られるというパターンは
繰り返すことでよりスムーズに、より無意識のうちに出来るようになる。

「日課」はそのようにして活動パターンを繰り返して強化し、

ほとんど意識せず行える活動の結果、得られるということだ。

✴︎✴︎✴︎

スマートフォンチェックが日課となっていた私の分析をしてみる。

スマートフォンにはあらゆるアプリが入っていた。

私にとって「報酬」を得られる装置として色濃くイメージ出来るのが

インスタグラム

ツイッター

インターネット検索アプリ

だ。

スマートフォンを持ち、行動するため「アプリをタップする」というトリガーが発生しやすいのは確かだ。

そしてSNSからチェックする。チェック項目はざっくりまとめると

「自分へ通知が来ていないか」

「知人の情報はないか」

「真新しい知識はないか」

に集約される。

これら3つのポイントを確認してみる。

まず

「自分へ通知が来ていないか」

自分へ通知が来ていた場合

コメントやメッセージがあると
早く返信したい、返信しなくては失礼だ。と感じてしまう。
また、「いいね」があると承認欲求が満たされて嬉しくなる。
またいいね、が増えないか確認してしまう。

私の
通知を確認する作業は
どうやら
「私個人を承認してくれる」快感や
「ヒトとコミュニケーションを取り、孤独ではない」という実感

が、含まれてると感じる「いいね」


という報酬を得るためのルーチンだと思われる。


次に

「知人の情報は無いか」

自分がフォローしている見ず知らずの人、というより

相互フォローの関係のある人の情報を得たいというイメージだ。


知人の情報、発信していることを自分が認知し
「いいね」を押したり、コメントすることで
「私はきちんと受け取っているよ」と主張したい。

これは、疎外感に弱い自分にとっての防護線みたいなものかもしれない。

また、自分だったらSNSに発信していることを人に知ってもらいたい
(先程分析したルーチンによって発生する快感)と感じているので、
自分の価値観と同等に人にも「報酬」を与えるべきだ、と考えてのことかもしれない。

あまり普段は意識していないが、
自分の基準=周囲の基準
だという感覚で
それに伴って、報酬や無礼にならない行動を選択しているのだろう。

自分が嬉しいなら、人も嬉しい。
この思い込みがある。

また、こうした価値基準の近い人たちがいわゆる「友達」として繋がりやすいのも頷ける。報酬とトリガーとルーチンの流れがにていれば、それだけコミュニティーにおける試行錯誤は減り、簡単かつスムーズに各々の報酬が発生するからだ。


最後に

「真新しい知識はないか」

これに関しては、好奇心と知識欲の割合が高い。

世間で起きていること、世界で起きていることは知りたいし、新しい知識を得ることで、自分の行動や見え方、選択肢が増えている、

ように感じていた。


しかしながら実際のところ、どうなのだろう。

そもそも自分の基準があるので、

世間や世界、だと自分が思い込んでいるがごくごく一部のエリアのことをチェックしているに過ぎない可能性もある。

自分の知っている国、知っている名前の地名にしか興味関心、というトリガーは置かれてないのではないか。

また新しいグッズの情報、育児のライフハック、なるほどと思う言い回し、どれもときめいたりすごい!と思ったり、なるほどと思う。

が、

日常にそれらが落とし込まれているかと言われたらほぼ無い。

というのも私にとっては新しい知識を得ることは快感だがそれを実行に移したり、体験したり、失敗して得たものを味わう、考察する、というところまでは「ルーチン」化されていない。ルーチンに入らないことの報酬を脳が「有益」だと認識することは不可能だ。

新しい知識や情報を得て、そこで終わり。

インターネット検索アプリで検索して、納得して、終わり。

検索すること自体が快感になり、自分の基準に合う情報を得て、完了していたのだ。

前進もなければ、試行錯誤、成功体験も存在しない。

知識を得て自分の価値観や見聞を広げていたようで、実は出来上がったルーチンを繰り返していたのだ。


✴︎✴︎✴︎

本や雑誌、ネット上でのコラム、ブログ…真新しい知識は、アプリでの検索以外でも得られる。

検索で自分基準という偏りのある情報より得られるものは広く深い可能性が高い。

情報の発信や受信で「人と繋がっているんだ」という感覚だったが実のところはわからない。

人間同士は面と向かって対話するのと、文字を通してセッションするのでは使っている頭の部分が違う。

私の中で「快感」となっていたのはリアルな繋がりとは全く違う部分だ。

✴︎✴︎✴︎

インスタグラムのシステムが、最近変わっていた。どうやらテスト改変らしいのだが、

いいね数が画面から消されていた。

「いいね」の数の表示が表立っては見えなくなっただけで、タップすれば誰がいいね、したか、どのくらいの数なのかは分かる。ほかのアカウントではいいね数が確認出来るものもある。

私は複数アカウントを作成しているが、いちばんログイン頻度が高いもののアカウントついて

数が可視化されないようになった。

おもしろいことに、この改変でインスタグラムのトリガーが少しずらされ、私の中のルーチンに変化が起きた。インスタグラムへの関心がガクッと薄くなったのだ。

いいね、の数という「報酬」が消された結果であると考えている。


✴︎✴︎✴︎

日課とはなんだろう。

毎日を過ごし、繰り返して出来るもの。

トリガーが設置され、システムが構築され、報酬を与えてもらう。

誰もがやっていることで、生きる中の営みだ。

私にとっての営みは

ほぼほぼスマートフォンが握っていた。

こうして分析し、検証してアウトプットすることも、スマートフォンがそばに無くていつものように時間をアプリに捧げなくなったからだ。

手元にスマートフォンが戻ってきたら、どうなるのだろう。

また付き合っていくのだろうか。日課になっていくのだろうか。

少し距離があるうちに、なんらかのトリガー対策を練ろうかと思う。

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タイトルの画像は私の日課の黒板描き。

このルーチンはなんなんだろうな〜。まだ分析してない。







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