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町内会・自治会とは何か

 NPO政策研究所が主催された、玉野和志著『町内会』(ちくま新書、2024年)の読書会に参加した。広く参加を募る読書会に参加するのは、学生時代以来ではなかろうか。
 今回のテーマは「町内会・自治会」だが、私はこれをどう取り扱い、どう関わるべきか、どうもよくわからずに長年過ごしてきた。私が幼少の頃、わが家は自治会に入っていたが、途中で両親は「メリットより負担が大きい」といって、ご近所の数軒と共に脱退した。
 以来、私はマンション管理組合の役員はしたものの、町内会・自治会に関わったことはない。(以下、町内会と自治会の語が入り交じりますがご勘弁を。)

 今回、この本を読んで、町内会の成り立ちについては、なるほど、そうだったのか…、とよくわかった。
 ざっくり言うと、近代化・都市化の流れの中で、地主や農民の代表から自営業者の代表へと担い手が移るが、巧妙なしくみづくりによって、政治参加を一部だけに抑え、行政の下請け業務だけを温存した歴史があった。
 かつて市議会議員の構成を見て、うちの両親が「農家と米屋と酒屋ばっかりやな」と言ったが、歴史的経過にちょうど当てはまるのがおもしろかった。

 また、GHQが町内会を一旦廃止させたとは知らなかった。著者は、町内会を封建遺制だと見たGHQの考え方は間違いだった、と書いていた。
 ただ、戦時中に、草の根ファシズム、家族主義的国家観が津々浦々まで浸透したのは、天皇制イデオロギーだけによるものではない。隣組の歌にも感じられる、個人主義のない「もたれあい」町内会により、孤立しやすい都市住民の承認欲求に応えたものだと思う。
 だから、町内会を「封建遺制」とだけいうとおかしいが、自発的な翼賛体制を構築したからこそ日本は暴走できたわけで、GHQが町内会を潰そうと考えるのも無理はないと思う。(気づけば今日は敗戦記念日であった。8.15だけにこだわるのもどうかと思うが。)

 話は変わるのだが、かつてボトムアップの条例づくりをどうしたら可能になるか、泉州のある自治体にきいたことがある。お祭りの盛んな土地柄でもあり、当時、この市は自治会加入率100%だった。
 そこで担当職員が何と言ったか。「こんな条例つくります、と自治会に下ろして回覧板がまわったら、それでOKですわ。何も問題ありません」。それはただの理念条例ではあったが、そんなふうにしてできる条例なら要らない、と私は思った。
 また、接戦だった市長選挙で、候補者の取り巻きが「自治会の支持なんか要らん」と豪語したら、その候補者は落ちたという話も聞く。このように自治会は、集票組織であったり、市議会議員へのステップアップの踏み台であったり、どうもダーティというかマイナスのイメージが強すぎる。

 この本を読んで、町内会の変遷についてはよくわかった。しかし、現在、その帰結を見るとこのようにやりきれない思いが残る。今や時代の趨勢から完全にズレた存在だと思う。
 巷では、紙屋高雪が『町内会は義務ですか?』(小学館新書、2014年)『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書、2017年)などの本を出している(この人はマルキストらしいが、ふざけた口調でどうも私はなじめない)。
 また、似たパターンで、PTAについての論議が盛んだ。兵庫県川西市にはPTA改革を叫んで通った市長もいるらしい。この問題も、山本浩資『PTA、やらなきゃダメですか?』(小学館新書、2016年)、今関明子・福本靖『PTAのトリセツ』(世論社、2019年)などの本が出ているが、PTAは保護者が一定年数経つと入れ替わるので、町内会とは性格上少し違う組織だとも思う。
 ひと昔前には、公民館の他にコミュニティセンターをつくり、これを市民運営に委ねようとしたのだが、結局、自治会運営になってしまったという。
 コミュニティ政策というものには、私もずっと関心をもってきたが、どうも昔から細々としている印象がある。

 この著者は「町内会は捨てるには惜しい」と書いているが、未だに地主・自営業者主導の名残、行政下請けの実態があるので、そのしがらみを廃せるなら私は別に惜しくないと思う。
 基本的に一回リセットして、「まち協」「地域自治協」「住民自治協」などといわれる、自治基本条例などに基づく新たな住民協議会に自治会はとって代わるべきだと、私は思っている。
 豊中市など、いくつかの自治体がこの路線で整備を進めているが、自治会との対立が生じたり、思うように進んでいないところも多い。また、池田市のように、しくみはよいのだが、トップダウンの官製協議会では全然ダメである。
 本書の結論は、負担が大きいならば住民協議会のように窓口機能だけ残すとか、機能の一部にいくつかNPOを参入させてもよいから、とにかく町内会を存続させて、議会制民主主義の一角に組み込む方策を考えるべきだ、という方向性になっている。

 ところで、私は大学院に在籍したこともあるのだが、アカデミズムの世界、研究者の世界がどうも苦手である。この本もとてもおもしろかったのだが、あくまで町内会だけの歴史を書かれており、外的要因が検討されていないようにも感じる。
 例えば、先に書いた戦時中の家族主義的国家観もそうだし、戦後では学生運動や労働運動の衰退からフェミニズム・エコロジーへの流れ、最近ではネットの普及とその弊害による人間関係の変化などもある。
 研究者は専門領域を究めるものだ、といえばそれまでだが、膨大な分析の最後にさらりとした結論、というケースがよくある。アカデミズムにおいては、先行研究に比してほんの少しの差異を見つければ画期的なのだろうが、一般庶民としては何の役にも立たないので、そこは残念である。

 さて、この本の締めくくりでは、議会制の問題点が語られている。ここは全く同感であった。あまりにも見識のない市議会議員が多すぎる。いったい何%の投票率で何人の支持を得られたと思っているのか。その支持者は自分の何に共感してくれたのか。まずはそれらを自覚して、自分は民主主義を担うピースの一コマでしかないことを知れ。しっかり議論を積み上げれば、住民協議会の方がよほど価値がある。そもそも間接民主制というのは「仕方がないからやっている」スタイルなのだ。