BOOK CAFEそらふね『共時性の深層』
みんな大好き!シンクロ~ニシティィィーーーー!!
移動図書館の船長とと子、やってまいりました。おいしいコーヒー片手に(自分が飲んでるんかい!)CAFEオープンしております(''◇'')ゞ
「シンクロ」でおなじみ、Synchronicityってのは心理学界の巨匠ユングが思いついたコトバで、人間の心の仕組みとその不思議な「共鳴現象」を指すんですな。日本語だと共時性。日本語のほうはあんまりなじみがないかな?
因果律を超える、もう一つの原理がある。
帯のキャッチコピーがかっこいいよね。因果律ってのは、原”因”と結”果”の「理屈で考えればそうなるだろう」って流れのこと。こうなったら、こうなる。そうきたら、こう出る。
数学とか科学は因果律を元に発展してきた学問ですな。
その恩恵があまりにも大きくて、影響力が強かったもんだから、「因果律にそぐわない原理?ふんっバカバカしい。そんなもの存在しない!」って態度になりがちな社会なんだけど。
占いやオカルトが好きな来館者諸君(だよね?)は、「理屈じゃ説明できない現象だってある」って主張も納得できる側のニンゲンだと思う。というか、ありとあらゆる現象のうち、因果律にそうものだけをピックアップして研究した分野が数学や科学なわけで、自分の領域外のことを存在しないって言うのはちょっと乱暴だって思わない?
地球上の生物のうち、特定の地域に生息する生物群の特徴を詳細にけんきゅーしているエライ先生が、深海のダイオウイカの存在を信じないどころか海洋生物学者をコテンパンに批判したり・・・しないと思うんだけど。
そういう学問の世界では相手にされにくい「数値化されないなにかの存在」を「心理学」という形で多くの人に影響を与えたスゴイ人のひとりが、ユングせんせ。
ユング心理学ってのは、人の心の「意識されてない部分」、無意識のしくみに特に注目している。自分でも気付かない心のしくみ、働き、ってやつ。ちなみにこの本はそのユング心理学のうち、「シンクロニシティ」に的を絞って、あれもシンクロの構造、これもシンクロの構造、ってふうに例を挙げてる。
そこから私とと子が「オモシロイな!」と思った部分をちょぽちょぽつまみ食いしてまとめたものを、今回のBOOK CAFEテーマにしようと思います☆(注:本書の流れとか内容構成とは結構ギャップがあるかも)
無意識の底にもぐっていく
まずユング心理学で注目されてる無意識、特に本書で取り上げられている「集合的無意識」ってのはどういうもんなのか、ってところから。
のっけから別の書籍で説明させてもらって申し訳ないんだけど(笑)田坂広志せんせの運気を磨く~心を浄化する三つの技法~ (光文社新書)に出てた「無意識の階層」の説明がとってもわかりやすかったから、これを借りして説明します。
心の動きのうち自覚できている部分が「意識」、この図だとそれも2段階に分けてるけど「表面意識」でくくられている部分。
そのひとつ下に「個人的な無意識の世界」があって、もひとつ下まで潜れば「集合的な無意識の世界」になる。この本で扱っているのはこの集合的な無意識の世界、って階層で起こる出来事のこと。
「因果律に囚われない」不思議なできごと、偶然とか奇跡のように思われる展開、そういう共時性(シンクロニシティ)はここの階層に深く関わっているんですよ、ってこと。
その「集合的無意識」の世界をもっと具体的に見て行くと、身体で「感じ取る」経験だとか、本能的に「知っている」ことだとかそういう領域があるんだよね。
そこから更に潜ってみよう。もっと深くまで・・・「心」と「物質(身体)」の境目の一線を越えてしまえば、そこは気付くこともカタチにすることもできない「ナニカ」の世界になる。
そういう生理的な側面~霊的な側面までの深度は、光のスペクトラムに例えて赤外線領域、紫外線領域、なんて表現されている。タマシイとかスピリットっていうアレは紫外線領域に含まれる存在なんだね。
説明のしようがないし、「心」みたいな存在だけど単純に個人的な「心」とはちょっと違う。神秘的な感覚、経験を集合的無意識の中でも「類心的無意識」なんて言ったりするらしい。「類心」ってのは「心っぽい」ってこと。
時にも場所にも左右されないニンゲン共通のパターン
集合的無意識ってのは、個人的な感覚や経験に関係なく、「集合的」にグループの中で共通する(共有する)世界ね。集団の規模は、夫婦とか家族だったり、地域とか国家だったり、文化的なグループだったり、規模は様々なんだろうけど。
そんなかでもおっきいスケールで捉えた集合的無意識、人類っていうグループで共有している心のしくみを見てみたのがユングのおもしろいところ。
「おいおいちょっと待てよ、洋の東西を問わず時代も問わず、共通している心の動きやパターンってやつがあるんじゃないか?!!」って発見したのです。
その心のパターンが、元型(アーキタイプ)。
元型は昔話、神話、儀礼の中で特定のキャラクター像をもって表現されている。何種類も分類されてるんだけど、これが時代も地域も超えてどこにでも現れてるってことは、元型をけんきゅーすることで人類共通の心のパターン、しくみがわかるよね?!ってこと。
キャラクター像ってのは、シンボルとかモチーフとかってこと。固有名詞を持つ特定の誰か、じゃなくて、そのキャラクターのまとうイメージとか象徴の部分に注目するんだよ。
昔話、儀礼に登場する元型は、その描かれているキャラそのものに意味があるんじゃなくて、そのキャラを通して「特定の心のパターンをなぞること」に意味がある。この部分はあとでもっと詳しく書こうかな。
元型で描かれるものは、集合的無意識の赤外線領域~紫外線領域の両方を跨ってカバーしてるってのが特徴。どっちの経験、感覚も含めて表現したものが元型。
うーんと、占星術でいえば「月」が表しているのはどんな心のパターンか?
それは個人的なことを超えてみんなに共通する心のパターンの「ある部分」をピックアップしてるから、こうして誰もが読むことができるんだよね。そういう共通する心のパターンの「ある部分」に、月、とか太陽、ってキャラ付けをしたように、ユングは元型っていうキャラのフレームを考えていったってこと。
言い換えれば、占星術も、元型に従って占星術語でそれを表現してるってだけ。タロットの大アルカナも、それぞれが元型を表してるよ。
元型が果たす機能
例えば、で挙げられたのが「グレート・マザー」っていう元型。これね、また他の本になっちゃうんだけど、河合隼雄せんせの昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)が圧倒的に分かりやすい。
(この本めちゃめちゃオモシロイからまた改めてBOOK CAFEしたい!!!)
元型にはイイもんもワルもんも無い、というか、ネガティブ&ポジティブ両面セットでひとつの元型がある。グレート・マザーってのは「母性」ですな。その両極は「生み出し守り育むチカラ」と「拘束して呑み込み死に至らしめる力」・・・まさに生と死両極端(それでいて表裏一体)な存在感(心のパターン)を表した元型。
これね、全人類共通の心のパターンだからね。男の人にだってある。
われわれは自分の能力も省みず、何事であれ自分で「抱きこみ」、「かかえこもう」として、それが不可能とわかった途端に、棄て去ろうとし、死に追いやろうとしなかったであろうか。われわれは誰かを世話し、育てるという美名に隠れて、その自立をさまたげていないだろうか。
昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)
元型が昔話や神話、儀礼に繰り返し登場するのは、元型にはこうした経験や心情、誰もが遭遇する典型的な葛藤を乗り越えるチカラを持っているから。
これは昔話とか神話が「教訓」として語り継がれてるわけじゃないってのがポイントだよ。そうじゃなくって、繰り返し語ること、聞くこと、心のパターンをなぞること。それが重要なんじゃないかなって思う。
対立する要素に(無意識下で)向き合うこと。それが両極をつなぐきっかけになる。
おはなしのコトバそのもの、文章そのものに意味があるんじゃなくて、聴き手なり語り手なり、それを受け取るそれぞれの「心」のほうに「意味」が生じる、作用するのが元型のチカラ、なんじゃないかな。
長く語り継がれてきた物語、昔話とか神話、古典にはそういうシステムが組み込まれてる。
古典は確かに役に立たない。でも、違う意味では役に立つのです。口幅った言い方をすれば、人生の役に立つ。ふだんの生活にはまったく役に立たない古典は、大人になり人生の深い問題にぶちあたったときに突然、その真価を発揮します。
役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん
ちなみにグレートマザーという元型がどんなふうに物語に登場して、どんなふうに心に作用しているのか、それを身近な例でたっぷり挙げてくれてるのが昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)!!
昔話は「単純な勧善懲悪のストーリー、教訓じゃないのよ」ってのが面白いところ。むしろ「捨てられた現実」がリアルに残っている、忘れられないように語り継がれているってことを心に留めておきたい。
そういえば昨日『約束のネバーランド』シーズン2を最終話まで一気に見たんだけど・・・グレートマザー、まさに!!!!って感じでおもしろさ倍増だった。これも改めてブログで鼻息荒く書き残したい(笑)
占いと共時性の接点
これはもう、言わずもがな、なんだけど。占いってのは共時性ありきの働きかけですから。「数」ってのも、元型の一種なんだよ、って視点がおもしろかったな。
言われてみれば確かに。数秘術も数の元型(共通する象徴、イメージ)を元に構成されてるわけだし。錬金術も占星術も、「数」の元型的な役割に注目してる。
「量」としての数じゃなくて、「質(存在感)」として数をとらえるってこと。ホロスコープも数の曼荼羅みたいなもの。神聖幾何学も、元型一覧表って言えるのかも。
元型一覧表、うむ。これ言い得て妙じゃない?これがあれば無意識の構造(見えない世界の仕組み)の全体像がわかる。神聖幾何学だ。
占いってのは、裏(うら=占)を明らかにする術。隠された神意を、現象から読み取ろうって魂胆。目に見えるおしるしや出来事のことを、「ほ(=象、秀)」っていう。
日本神話でも占い、誓約(うけい)は物語の重要テーマになってる。スサノヲが身の潔白を証明しようとアマテラスに提案した、アレ。そしてこのへんストーリーのアヤシサ、歴史の闇(オトナの事情)が垣間見えるオモシロイ部分でもある(笑)
占い(共時性)の両面性を表すスサノヲ
共時性の深層 ユング心理学が開く霊性への扉ではスサノヲを占い手、共時性のしくみを表す重要参考人として細かく取り上げている。
うーむ。正直、この本は「共時性」ってことばがどの部分につながってるのかひじょーにわかりにくい、というか各章の内容が単発?なんだけど、要素要素はおもしろいから、私もバラバラとピックアップ。
スサノヲの性質を解釈する時に最初に出てきたのが、ソンディ心理学(運命分析学)のe因子って分類。ソンディ心理学では運命は「選択」で決まるとしていて、その選択に作用するのが8つの衝動因子だって見てるそうな。エニアグラムみたいなやつかな?
スサノヲは典型的なe因子だな!ってのが著者の見立てで、e因子ってのは「怒り vs 宗教性」ってのが大きな特徴らしい。宮沢賢治とか、天才物理学者パウリとかもその特徴の例に挙げられてた。
エネルギーが大きくて、ある意味無邪気で、直線状じゃなくてギュンッと突然質が変わるような変容(成長)をする。
もう一つの特徴が、マレビトという特性。あっち側の存在。まつろわぬ民的ポジションですな。漂泊の芸能民、ジプシー!
定住がデフォルトになった社会の中で、異端として差別され、同時に畏敬の念をもって扱われた存在。そういうあっち側の存在、異界からの来訪者は(ちゃんともてなせば)幸せをもたらして、罪穢れを持ち去ってくれる存在として各地に「マレビト信仰」として語り継がれている。
罪穢れを持ち去ってくれる、ってことは、それをあぶりだすってことでもある。布団たたきでバフバフ叩き出すみたいな、ある種の暴力性、それがスサノヲの乱暴狼藉にも通じる。
そんで追放されることによって、それを全部引き受けて持ち去る。叩き出して、浄化する。なかなかに刺激的で、コントロールしづらい存在ってわけ。
無意識と意識をつなぐ鎮魂の術
裏に隠されていたものを明らかにする、占い。その隠されていたものがいつでもポジティブで心地いいものとは限らない。むしろ無意識の底に隠しているモノって、「欲望」とか「抑圧」とか、切って殺して捨ててきた存在がほとんどでしょ。
それを表に引っ張り出してきて、叩き出して拭い去る。それって「鎮魂」じゃないか、と思ったの。
普段は思い出さないような過去をそのままにしておくと、あるときその思い出が自分に押し寄せて自分の人生を駄目にすることがあるそうです。
(中略)
私たちは、いまを生きるために過去の自分をどんどん切り捨てています。切って、捨てて、殺した自分がいる。
『平家物語』 2020年5月 (NHK100分de名著)
能はさ、切って捨てられた側の物語、殺された側の物語にスポットライトを当ててる。演じられることで、表に出ることで、抑え込まれていたタマシイは解放されて浄化される。それを見ている側も、自分の中の無意識の「切って殺された自分」を重ね合わせて叩き出し、罪穢れを持ち去ってもらう。
この演じること、表現することの「鎮魂」的役割については、安田登せんせの『平家物語』 2020年5月 (NHK100分de名著)で読んだのが最初の衝撃だったかな?
能楽師、古典のプロフェッショナルだ。元型の「葛藤を乗り越えるチカラを与える」機能を発揮するのが古典だから、そう思って読んでみたらまた新しい発見があるかも。
そうそうそう!!漂泊の民と「不可思議な能力」といえば陰陽師!
安倍晴明自身は漂泊の民ではないけれど、「式神」ってそういうことだったのか・・・も?!って視点がすごーーーくオモシロイ。
シャドウに向き合う、シャドウを取り戻す
さて心理学ではそういう無意識の底に沈みこんだ心の部分を「シャドウ(影)」って表現しますよ。このシャドウを隠そうとする、避けようとすることを「(メンタル)ブロック」って言うのかな。
オカルト界隈では「ブロック外し」たる技が存在するようです。プロレス技みたいでかっこいいよね。
注意すべきは、外されるってことは、シャドウに触れねばならんっちゅうことです。見たくないものを見ないまま、欲しいものを都合よく手に入れられる技じゃないことを心に留めておかねばならんと思うよ。もし本当にその人の「ブロック」を他人が外からこじ開けられるんなら。
精神分析家で哲学者ジャック・ラカンせんせは、「患者は分析家に語ることを通して、自分の歴史を引き受ける」それが精神分析のプロセスだって言う。これは「語りなおし」をしてるってことだな。
ほんまに辛いことがあったときとか、何かを失ってしまっただとか、挫折を経験した時に、そこから立ち上がって新たに人生を動かすために「自分の物語の、語りなおし」が必要になる。
自分の物語、ってのは、アイデンティティのこと。
私はこういう人間だ、こういう人生を生きている、って自分に語って聞かせる物語。自分で納得できるストーリーのこと。占星術で言えば、太陽のことね。
葛藤や困難を機に「語りなおし」を繰り返して、自分の人生のフォーマットを書き換えながら、更新しながら人は「人生を生きる」ってこと。
「語りなおし」を通して、人はこれまでの経験、人生を縫い直して、新しい模様(デザイン)に仕立てなおす。そのひと針ひと針刺すような痛みは、残念だけど誰かに変わってもらうことは出来ない。
語りなおすという心の作業は、さきほどふれたように不安定な状態に身を置くことだ から、じぶんでも怖い。そのときに、他人が代わりに語ってくれるのはものすごく助かる。
こういうふうに考えましょうとか、あなたはいまこんな気持ちでいるんでしょう、こういうことがどうしても乗り越えられないんでしょうと言われると、その場では一瞬、楽 になれる。語りなおしを他人が助けてくれるわけです。
でも、それがじつは最悪の対応なのです。
いっときはじぶんで語りなおすことを免除されるにしても代わりに語ってくれる人がいなくなったら、じぶんはまた元の木阿弥、元のストーリーに突き落とされてしまう。苦しいけれども、じぶんで語りなおさないことには事態は収束しない。
語りきれないこと 危機と傷みの哲学 (角川oneテーマ21)
シャドウは離れようとすればするほど濃く大きく恐ろしくなる。切り離すことはできない。シャドウを生み出して、苦しんで、向き合って、そして取り戻すまでのプロセスは、ものすごい高額なセミナーにいったりアヤシイ施術を受けたりしなくても「物語」を読むことで取り込むことができるってことも、知っておいてほしい。
ゲド戦記なんて、まさにそれ。
ニンゲンははじめっから不完全
そいでさっきチラッと出てきたラカンせんせのハナシがめちゃんこ面白かったから、ここに挿入させて。これ、グレートマザーの元型のハナシにも繋がるんだけど・・・
幼児の母子分離体験ってのは、相当にショッキングなもんなんですね。人類共通のトラウマってこと。でもそれは無意識に沈んでて、そんなのいちいち気にして生活してないの。(でも別の出来事がきっかけになって併せて浮かび上がってきたりする)
「自分=母」の全能感から、切り離すのが父。
これも元型的な父、「父性」ってこと。ほんとにお父さんじゃなくても、社会のシステムとか、そういう「オトナになれよ」って促すチカラのことね。外部の影響、自分の中にある心のパターン、どっちも含めてそういうものを「父性」って言っておく。
このチカラが働くから「自分=母」が切り離されて、「自分」と「母」っていうそれぞれの存在が成立する。成立の前提に切り離す存在「父」がある。
んでもって切り離す「父」ってのも切り離さねばならん対象「母」がいるから発動するわけで・・・卵が先か鶏が先か?母性も父性もグルグルと循環して存在するってのがこの図。
そうやってグルグル循環していくことで「はっ!」となるのが「私」。自己の確立、私は私だ(母とは別の存在)っていう気付きなんだけど・・・
ちょっと待って!
その私の出発点だった母は、父がいるから母として存在したわけで、父のほうも母がいるから父という存在が生まれたんでしょ。じゃあ・・・私って、そもそもどこにあるの・・・?
ってのが上の動画で説明されてたグルグルの図。そんでもって「ニンゲンはそもそも内的欠陥をかかえた存在なんだ」っていうラカンせんせの主張。
これがね、私のこないだ書いたドーナツの穴的ワタシ論にクリーンヒットしたわけですよ。穴のことじゃん!「大前提」だと思ってたものが、穴!なにもないじゃん!って。
占星術の、月(母)と太陽(父)がぐるぐる回るその中心、ドーナツの穴(そこに実体は無い)が自分なんだってワタシ的占星術理論。(笑)
自己の無根拠と向き合った彼岸に、他者の欲望としての自己の欲望が認められなくなる自分の消失点に、その消失点に抗う何物かが現れるはずではないのか?
このラカンせんせのコトバをドーナツの穴的占星術理論(←今勝手に名付けた)で言い換えるなら・・・
「自己の無根拠と向き合った彼岸」ってのは占星術の「その先」。
んで、占星術の「その先」ってのが、この人工言語設立の究極の目的で。その目的は存在の絶対的根拠を肯定すること。そんでもって、それは「ない」ことが前提になってるってこと。
だからそもそも「ない」ってことに気付くってのが、占星術を学んだ「その先」なんじゃない?って私は思うのね。ドーナツの穴は、穴だった。
「他者の欲望としての自己の欲望」ってのは月に留まる自分。
母親像と切り離せていない自分像。それが「認められなくなる」ってことは、月を過去に据えて太陽に向かうプロセスだね。さっきの例で言えば父性による切り離し。(占星術語で言えば逆に「認める」ことで先に進むイメージだけど)
「消失点」はそのプロセス、空洞部分にあたるんじゃないかな。
そんでもって「その消失点に抗う何物か」が、自分なんだよ、って。それでも私は・・・私なんだ、ってこと。
肯定するものをわざわざコトバにしなくても、それを否定するものがそもそもなかった、って気付くこと。
不完全な自分が不完全なままで完全な「全体像」を手に入れるプロセス
ユング心理学では人生の前半、後半で向き合うテーマが変わると捉えるらしい。
人生前半「偏りが生じようとも、自らの確固たる立場、観点、価値観などを構築することが重要」
人生後半「偏りの解消、バランスの取れた心の在り方、心の全体性」
これって、天体の年齢域が個人天体から社会天体に切り替わるってことだよね!うんうん。
後半の言う「バランス」ってのは能力値を平らにならすってことじゃなくて、その偏りを含めた自分の能力を、社会全体の中でどうバランスをとっていくか、調和できるポジション取りをうまくやっていくか、ってことだと思うんだよね。
これを読んで思い出したのがまたまた安田登せんせ。
子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず
四十が切り替えポイントかな?
私はここで安田登せんせの「惑わず=区切らない」説を採用したい。これは迷わない(ブレない、固定する)って意味じゃなくて、線引きをして自分の可能性を限定しないってこと。
人生後半に向き合う木星のテーマは可能性の拡大。いっちばん最後の人生の締めくくり、土星は確かに線引きの天体だけど、それは「心の欲する所に従えども、矩を踰えず」。最後に自分の落としどころは自然と定まってくるってこと。
惑わずもとい「或」せず、で自分の偏り(閉じた世界)から外部と接点を持つ姿勢に切り替える。火星もそうだね。火星は外部との接点を持った時にちゃんと前半と後半をつなぐ「強さ」に向き合えってことじゃないかな。
外部の影響に屈することなく、相手を損なうことなく、折り合いをつける。バランスを取る。これは火星、免疫力の働き。
ここが苦しいポイントでもあるし。特に偏りの大きい人ほど、後半戦は苦労する。そのまま挫折することもある。
それでも、挫折と葛藤を繰り返して、「語りなおし」を繰り返して更新していくのが自分らしさなんだ。そんでもって、それを支えてくれるのは「元型」という集合的無意識の機能。
元型の機能ってのは、辛い現実も、それを含めた大きなチカラの一部として取り込んでいく「カテゴリー変換の知恵」。鎮魂の技術。
ラテン語の「sacer」は、聖なるもの「sacred」の語源なんだけど、この言葉には「呪い」や「恐ろしいもの」「穢れ」という意味も含んでいる。
聖なるものと穢れとか呪いって正反対の性質なんだけど、根っこというか存在感と言うか「絶対値」が同じなのね。(-5と+5は正反対にあるけど、絶対値は同じ5)
(中略)
日本では「呪い=祟り」を「聖なるもの=神」として祀るでしょ。道真公とか、平清盛とか。それってのは、カテゴリー変換の知恵、鎮魂の技術なんだ、って視点にシビレタ。
絶対値に対してピックアップするカテゴリーを変えちゃう。
-100ぐらいの恐ろしい祟りパワーを、100という絶対値だけを抽出して逆方向のカテゴリーで捉えなおす。+100の強力なsacred(聖なる)パワーになっちまうってわけ。
ユング心理学、おもしろいな~!ユング派は共時性のけんきゅーを占星術に絡めてしていただけあって、占星術師にも縁が深いのです。フラワーエッセンスにも、タロットにも絡んでくるから、ほんとオモシロイ。
以上、今回のBOOK CAFEではシンクロ~~~ニシティィィーーーーー!!でお送りしました☆彡最後まで読んでくれてありがとう♡
BOOK CAFEに届く感想、実はとっても喜んでおります( *´艸`)メッセージありがとうございます!!また張り切って本を紹介しますぜーー(''◇'')ゞ
そうそう、また別で紹介記事こしらえておりますが、ひとつ新企画としてタロットネタも準備中!!企画詳細とカートをOPENにするタイミングはまたぼちぼちお伝えしまーーす☆彡