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ねぇ、生きること楽しんでる?🪰〜BOOK CAFEそらふね『目的への抵抗』〜

銀河を翔けるBOOK CAFEそらふね、船長とと子が出会った本の「こいつぁオモシロイ📖!!」を全力でお届けするよ✨️今日お届けするのは、タイトルだけじゃきっとあんまり惹かれなさそうな(笑)それでいてスリリングな知的興奮と喜びをくれるこちらの新書『目的への抵抗』📖


つながっていく快感!

この新書タイトル見て、「あぁ、コレコレこういう内容の(主張をしている)本なんだね」って最初からパキッとイメージできる人って、あんまりいないんじゃないかな?「目的」も「抵抗」も、言葉自体は別にむずかしくはないんだけど、はて、「目的への抵抗」とな。。。?
「シリーズ哲学講話」ってサブタイトルも相まって、なんだかまじめでむずかしい本なのかな?なんて印象を持たれるかもしれない。

でもね!!私の読後の感想、「おもちろかった!!✨️」(笑)
エンタメとしてオモシロイってんじゃなく、つながっていく快感っていうのかな。お料理教室的なおもしろさ。出来上がった料理をウマウマと食べるんじゃなくて、先生が並べた素材に出会うところから、予想外のレシピで生まれる新しい料理を、その調理工程を隣で見せてもらっているような面白さ。先生の手さばきを眺めるのもオモシロイし、都度一緒に自分でも素材の皮をむいてみたり、混ぜてみたりするのも楽しい。

この本の土台になったのが、高校生も参加できる大学のオンライン講座「学期末特別講話」。「講義」じゃなくて「講話」ってスタイルがベースになってるの。そういうわけで、カジュアルすぎず、シリアスすぎず、「哲学」する面白さに触れられる一冊📖

こんなふうにこの素材とあの素材を組み合わせられるのか、とか。意識せずに混ぜ込んでたけど、これってこういう調理方法でできてたのか、とか。素材の加工、調理方法、器具の使い方・・・。料理(思考)の完成形を鑑賞するんじゃなくて、一緒に作る。作り方を練習する、練習したいなって思う機会をくれるもの。それが哲学ってやつなのかな。

哲学者の自己紹介

哲学の研究者である著者の國分せんせの自己紹介から始まるんだけど、その自己紹介からして、もう読んでいておもしろかったの。
大抵、オープニングに著者だったり対談相手だったり、スポットライトを当てる人の自己紹介があるもんなんだけど、そこって別におもしろくないじゃん!いや、その経歴とか人生経験に「すごいな〜」とか「そうね、個性的なんだね〜」って思うんだけど、もともと好きな人興味のある相手じゃなければ、そこまで「なるほど、オモシロイわー!!」って身を乗り出すパートじゃない。
けど國分せんせの自己紹介は、もう「そのハナシもっと聞きたいです」エンジンをかけてくれる。それは高校生である聞き手を意識して、「哲学者からのメッセージ」として提供してくれてるからってのもあるんだろうね。これからの進路、生き方、社会に強い関心を持つ世代に対して、哲学者による視点の持ち方アドバイス、みたいなメッセージを込めた自己紹介。

どうして哲学の道に進んだのか、研究者になるに至ったきっかけ。目の前の課題と、将来(遠くに在る漠然とした関心事)との付き合い方。その付き合い方が自分の進む道にどんな影響をもつのかってハナシ。
聞き手が「自分ごと」として受け取れる自己紹介、そんな自己紹介もあるんだね〜!

哲学するおもしろさ、楽しさ

で、國分せんせの専門分野「哲学」について。哲学と言えば、とにかくむずかしいハナシを考えること、とか、答えのない問いを投げかけること、とか、そんなイメージがあると思うんだけど。國分せんせが言うには『テンプレから距離を置いて、自分で問いを立てること!』その訓練が、哲学ってやつ。

世の中にはいろーんな問い、論点があるけど、それに対する答えも、考え方も、お決まりのパターンがある。賛成か、反対か。賛成ならこのテンプレ、反対ならこのテンプレ・・・ってなふうに。そこには、どっちかのテンプレに沿ってもう一方を圧倒するって解決方法しかない。そうすると、それ以上ハナシは進まない。

哲学は、テンプレから距離をおく技術。賛成のテンプレからも、反対のテンプレからも、一旦距離を置いて問いを立て直してみる。AgreeかDisagreeか、その二択以外の答えを導き出すために、見過ごされている別の切り口をスパッと差し込む挑戦。

今あちこちに意見が溢れている。意見を述べられるってのは、ダイジなこと。ただし、それがテンプレの押し付け合いだと、それ以上考えは進まなくなる。問うことを、考えることを、忘れがちになってしまうってことに気をつけないといけない。

哲学はチクリと刺す

テンプレの押し付け合いに別の切り口へと切っ先を向ける哲学の例に、イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンの炎上事件が挙げられる。イタリアのコロナへの対応政策に対するコメントだったんだけど、炎上しただけあってなかなかに攻めた内容で。その主張そのものに対して、読みながら物申したい気持ちに心揺さぶられる人もいるかもしれないけど、ここでは賛成/反対じゃなくて、「どうしてアガンベンはこんなメッセージ、問いを発したのか?」「この問いの背景(アガンベン個人の思想だけじゃなく、社会的な要因)はなにがありそうか?」そこに注目しながら読んでみよう。

で、そのコロナ対策(政策)とそれに対する社会の反応について、アガンベンが切り出す3つのポイント。

  • 故人との別れに立ち会うことも、葬儀も許されない状況に対して「死者の権利をないがしろにしてもいいのだろうか

  • 日本でも不要不急スローガンのもとにいろんな規制があったけども、イタリアの厳しい取締に対して「ただ生存しているだけの状態、それ以外に価値をもたない社会っていったいなんなの

  • 感染を防ぐために大きく制限された外出、移動の自由と、それを全く問題視しない人々に対して「移動の自由を制限されることの深刻さを、みんなわかって受け入れてるの?

本書で國分せんせが読み解いている順番と前後しちゃうんだけど、私が「へぇぇ!」と思った「死者の権利」について。
アガンベンは保守的な哲学者だから、歴史的な伝統とか、積み上げてきた関係性、文化、宗教や儀式の役割を重く見ているって國分せんせの解説にあったんだけど。私は結構そのあたりに疎いというか、逆に苦手意識を持つタイプだから、欠けていた視点だなって。

儀式、宗教的伝統、歴史的文化とか、そういうものを切り捨てるのは、「人間らしさの切り捨て」になるんじゃないか?今この生者の世界に属していない死者、故人のつくりあげてきた土台に敬意を払うことは、今生きている(肉体的な生存)以上の価値を認めること。そこに無関心になること、切り捨てることに慣れてしまうこと、そこに問題意識を持ってるってことだよね。
今、今、今・・・この限定的な時間の範囲にしか目を向けない、ペラペラな社会になっちまっていいのか?時間的、精神的なまなざしの範囲を、その射程範囲を今の枠組みにしか据えられない社会に、そんな人間になっちまっていいのかい?

ここで上で紹介した2つ目のポイント「ただ生存しているだけの状態、それ以外に価値をもたない社会っていったいなんなの」ってハナシになる。

アガンベンはそういう「ただ生きているだけの生」を「剥き出しの生」って表現しているんだけど、これは物理的に死んでいない状態をキープできているって意味で「生きて」いるってこと。もちろんその「生」は生物である以上言うまでもなくダイジなんだけど、それ以上のもの、もっと大切なものだってあるでしょう、なんならそこに「人間らしさ」があるでしょう、ってのがアガンベンのまなざし。

剥き出しの生、生きることを脅かされる恐怖ってのは、すごく強いインパクトがある。でも、それを失う恐怖は人を結びつけない。団結を生まない。それどころかその恐怖の影響力は人の目を見えなくする。盲目的な、お互いを分離するチカラとして発揮される。だから、ただ生きるだけの「剥き出しの生」を重視するよりも、生きる以上に大切な価値あるもので結びつくべきじゃないのか?って考えたのかな。

ここで國分せんせは「生きる以上の価値」って考え方の危険性にもちゃんと触れている。大義をかかげて生存を脅かされること、生きる以上の価値によって死を強制されることはなんとしても防がないといけない。

とはいえ哲学って、こんなふうに危険と隣り合わせでスリリングな考える営みなんだよね。いや、むしろ「考える危険性にとことん向き合う」からこそ、考えているって言えるのかもしれない。哲学者ってのは、その危険に向き合う人。

國分せんせいはソクラテスの「哲学者は社会の虻(アブ)」って表現を引き合いに出して、アガンベンの炎上事件を考える。ブンブンうっとおしいし、刺されたらイタイ。まとわりついてぼんやりさせない嫌われ者の役割が、哲学者にはあるんだ、ぶんぶん🪰このアガンベンが醸し出した物議は、まさにアブぶんぶんに刺されて炎症(炎上)が起こった例なのかもね。

移動の自由

◯◯の自由、◯◯する権利、はいろいろあるけども、「移動の自由」ってあんまりインパクトがないというか、数ある自由の中のささやかなひとつ、くらいの印象なんじゃないだろうか。でもこの本を読んで「移動の自由を奪うことこそが、支配における最強の手段」って視点にハッとした。

相手をコントロールする手段として、暴力と所有がまず注目されるけど、実はそれだけだと支配力としては不十分で。完全に他者の自由を奪いたいのなら、支配者は相手が自分の手元から逃げられないようにしなきゃいけない。移動の自由を、奪うのだ。逆に言えば、移動の自由は「自由」でいるための根本条件だってこと。自由に生きるための最初の条件であり、支配や暴力から逃れる最後の砦でもある。

アガンベンの主張3つめのポイントが、移動の自由を制限されることについてだったのは、その重要さを思い出させるためのチクリ🪰だった。

  • 感染を防ぐために大きく制限された外出、移動の自由と、それを全く問題視しない人々に対して「移動の自由を制限されることの深刻さを、みんなわかって受け入れてるの?

繰り返すけど、國分せんせは「感染拡大防止のために移動を制限する」対策そのものの是非を問いたくてこの本で取り上げられてるんじゃなくて、この提案がチクリと刺しているのは、刺されて盛り上がるまで見過ごされていた視点は、いったいなんなのか?ってハナシ。

移動の自由の重要性を、今一度問い直す。それを奪われることの「ヤバさ」に無関心のまま、「仕方ないよね〜」「当然でしょう」とすんなり受け入れる危険性を、心に留めておくべきでは?これが思っている以上に「支配が生まれる構造」に絡んでくるってことは、歴史からも見いだせる。賛成か反対かは別として、「これは異常な状態なんだ」ってことを忘れちゃいけない。異常な状態に慣れて、当たり前だと受け入れるようになったとき・・・その先にどういうことが起こってきたか。
そうならないために、社会の虻🪰哲学者は、危険に向き合う。危険に向き合う=考える、哲学することは、権力構造や社会の仕組みの危うさに呑み込まれてしまわないために重要なのだ。

善を救うために善を放棄しなければならないと主張する規範など、自由を守るために自由を放棄することを命じてくる規範と同じくらい間違っているし、矛盾している。

アガンベン(2020.4に発表された論考より)

目的のために手段が正当化されるとき

権力構造の危うさ、支配と自由、政治についてハナシが展開していくのが本書の第二部。目的と手段の関係を改めて考えてみるパートなんだけど、アガンベンのハナシも、タイトルも回収されていく流れが楽しい!

さっきのハナシ、異常事態に慣れてしまった末路、支配が生まれる構造を受け入れてしまったことで突き進んでしまった悲劇の例といえば、ドイツの全体主義。この悲劇についてとことん考えた哲学者といえば、ハンナ・アーレント。そういえばアーレントもその主張がかなり炎上した哲学者だったな。。。🪰

目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない。

ハンナ・アーレント『人間の条件』

この目的のためなんだから、という口実で正当化されてしまう最悪の手段が、暴力。「あなたのためを思って、ウンタラカンタラ」が支配を正当化して相手をコントロールするセリフであることを思い浮かべたな。

第二部は特に政治のあり方に注目して、「目的を絶対視してあらゆる手段、あらゆる犠牲を正当化する危険」についてハナシが展開していくよ。

アガンベンの主張に照らし合わせると、「移動の制限」は「剥き出しの生」という目的を正当化する手段にあたる。彼は移動の制限っていう究極の支配の素地をならす手段に対して「はぁ?!」と言ってるのと同時に、その目的である「剥き出しの生」(死なずに生存さえできればそれでいい)にも「はぁ?!」って言ってるんだけど。「剥き出しの生」以上の、それ以外の価値を価値として認めない態度に、ぶんぶん🪰してるの。

「目的のための手段」からはみ出すのが「贅沢」

「剥き出しの生以上の価値」って言うとなんだか抽象的でわかりにくいけど、身近なコトバでいうならこれは「贅沢」のこと。贅沢がポジティブな意味のコトバに感じるか、ネガティブな意味のコトバに感じるかは人によって違うと思うけど、まずはその良い悪いの評価をはずして、贅沢ってどういうことを指してるのか考えてみよう。

贅沢な食事、贅沢な身なり、住まい、暮らし、エトセトラ。。。「贅沢」ってのは、必要以上にお金(エネルギーやコスト)をかけることだよね。
「必要」ってのは「何々のために、なにがどれだけ(最低限)いるのか」ってことだから、その基準をつくる「目的」が必ずある。目的(基準値)がなければ、必要以上も必要以下も存在しないからね。例えば、食事で言えば「栄養を摂る」という目的、靴で言えば「足を保護する」という目的、宿泊施設なら「夜を過ごす」という目的。
つまり、必要か?不要か?を判断するためには、その先にある「目的」が基準になる!ってこと。そんでもって、その「目的」に対して必要限度を超えるもの、不要な部分、余った部分は「贅沢」になる。目的からあぶれた部分、はみ出す部分。

栄養摂取(目的)のための食事(手段)は、栄養摂取(目的)という限度を超えれば「贅沢」になる。
夜を過ごす(目的)ための宿泊施設(手段)は、夜を過ごす(目的)以上のものを提供する/得られるのなら、それは「贅沢」になる。

アガンベンは「剥き出しの生」以上の価値を重視する。それは、ただ生存するという目的を超えて、プラスアルファ彩りを加えるもの。「生きる」という目的からはみ出る「贅沢」な部分に注目しているってことだね。

國分せんせも、そういう目的からあぶれた部分「贅沢」の重要性に注目する。満足感、充実感、豊かさってのは、そういう贅沢から感じられるんじゃないか?って。

「贅沢」が豊かさをもたらす?

ここで「え〜?!確かに贅沢は物質的な豊かさを表すけども、それが心を満たしてくれないことが分かってきたのが現代じゃないの?!」って思う読者は少なくないんじゃないかな?豊かさを追求すればするほど、欲望は際限なく膨らんでいくじゃないか。それに気付いてミニマリストや断捨離ブーム、足るを知る思想が見直されてきたじゃないか、って。それに日本には「清貧」の美徳があるからね。

しかーし!國分せんせはこう言う。そうやって満たされないのは、贅沢をしていないからなのだ。どういうことかってーと、贅沢は「浪費」であって「消費」じゃない、ってコトバで説明されてるんだよね。

「浪費」するってことは、実際にそれを食べる、手に入れる、味わうことそのもの。目的をあふれる贅沢、栄養摂取のための食事じゃなく、食事そのものを楽しむこと。夜を過ごすためという目的を超えて、それ以上の価値を満喫できること。目的のために「必要な手段」としてじゃなく、それ自体をたっぷり味わうっていうのかな。

それに対して「消費」は、実物を重視していないんだよね。消費されるものは、実物じゃなくて「観念」とか「記号」。みんなが行ってるレストランに行ってみた、って情報。こういうものを手に入れる、買うことができる自分デスっていう記号。
「浪費」は実際にモノを受け取って味わったり楽しんだりするけど、「消費」は食べることも手に入れることも、なにかの「手段」として行われる。食べることそのものを楽しむなら、お腹が膨れればそこで満足して食べるのをやめるけど、情報や記号はお腹を満たしてくれない

なぜ「贅沢」が否定的なコトバとして使われるのか

贅沢は目的をはみでる行為なわけで、それは言い換えれば「無駄」ってこと。ムダってコトバ自体が否定的だよね。國分せんせは「贅沢やムダを否定的に捉えるのは、消費社会がその消費ゲームを推進するための理屈」って視点でその理由を考える。
贅沢反対!って、てっきり消費社会に対する反発だと思ってたけど、むしろ消費社会の戦略にガッチリ組み込まれた思考パターンなんじゃないか?!って切り口。

消費ってのは、目的ありきの手段でしょ。贅沢は目的から逸脱するわけで、それは消費のルールからはずれる行為。目的ありきの手段(=消費)をヨシとして、目的から抜け落ちる(あるいは目的を持たない)贅沢をヨクナイとするのは、消費ルールを徹底する動きとも言える。
贅沢反対!ってのは、「すべての行動を目的と手段の中に留めようとする」消費社会の構造が生む戦略なんじゃないか。

目的と手段の関係の例に、食事がよく挙げられてるんだけど。栄養をとるという目的こそがダイジなら、カロリーメイトだけ食べていればOK!って理屈だって通っちゃう。なんなら栄養をとるという目的のためにもっと最適な手段を、とい様々な商品(食品や情報)の消費を、もっと、もっと、と促しちゃうのかもしれない。

國分せんせは、この目的からはみ出る「贅沢」、ムダ、不要不急と言われる部分に、充実感や楽しみ、私らしさがあるんじゃないか、と言う。
私はこの部分がこの本でいちばんおもしろかったな!!思い浮かべたのはクジャク。クジャクの羽って、クジャクらしさの象徴でしょ。でもあれって、生存という目的に関して言えばムダどころかリスクでもある(笑)まぁ、異性を惹きつけるという目的があって進化したんだって言う人もいるかもしれないけど・・・だとしても、目的からはみ出たコダワリ、必要とされる限度を超えるエネルギーを注ぐことが、その人らしさ(魅力)を生むってのは、なるほどなぁと思うのです。

ここで今思い出したのが(いや思い出せないのが)ある女性哲学者の末期がんの手記で、「生きるってなんなのか」だったか「運命(偶然)ってなんなのか」だったかをいのちの間際で考え尽くしたコトバの、キーワード。「それでもなお」。

それでもなお」の部分に、その人らしさ、もっと大きく言えば人間らしさ、価値、ヨロコビが生まれるってことなのかな。

目的なき活動、それすなわち「遊び」

目的からはみ出る行為、それ自体が目的である活動・・・そういうと難しく聞こえるけど、それって実は特殊な活動とか例外的な行動なんかじゃなく、「遊び」のことなんだよね!!歴史家ホイジンガは、「遊びこそが人間の本質(ホモ・ルーデンス!)」と言ったように、それはむしろ人間らしさの核でもある。

ホイジンガに影響を受けた思想家カイヨワが挙げた「遊び」の定義はいくつかあるんだけど、その中でこの本の内容にも重なるポイントは以下の3つかな。

・自由!
やるかやらないか、始めるのも終わるのも、自由に決められる。やりなさい!と言われてやるのは遊びじゃない。
・非生産的!
目的を達成する手段は効率を重視するけど、遊びは結果得られるものがなんなのかってことを重視しない。
・結果が決まっていない!
絶対にこうなる、をなぞるのは遊びじゃない。

「遊び」と聞いたら、不真面目なこと、無責任なことをイメージする人もいるかもしれないけど、ここでは「その活動そのものが目的で、他の◯◯のためっていう目的や活動理由・条件を持たない、何かのための手段じゃない活動」って意味で捉えてね。

日本語の「遊び」にはもうひとつ、ブレーキの遊びとかハンドルの遊びっていうふうに、「カチッと固定されていない、ゆるみ部分」って意味もあるよね。これも國分せんせの言う「贅沢」に重なるね。目的にぴったりフィットすること目指す手段じゃなく、目的からはずれた動き。

何と言っても、遊びは楽しむこと!喜び、充実感を生むもの。
目的に沿った活動だけをヨシとして、目的と手段の範囲からはみ出る贅沢を否定する社会って、遊びをなくそうとする社会って、いかがなものかな?
この問いこそが、アガンベンのチクリ🪰「生存以外にいかなる価値をも持たない社会っていったいなんなん」なんだよね。

でもここで「あいわかった!遊びは必要だ。人間らしく生きるために、遊ぼうじゃないか」となっちゃうと、それは必要だからする、目的のための手段になってしまうジレンマ。國分せんせは自分の社会活動を例にあげてるんだけど、きっかけは目的あっての手段、でもいいのかもしれない。そこから活動そのもの、行動そのものが楽しくなることもある。目的がなんであれ、その活動自体に充実感、喜びを見出すこともある。そんなとき、人は目的から自由になる

目的から「自由」になること

目的と手段の関係から、いろんな活動について考えていくうちに、「自由」というキーワードが存在感を増してくる。アガンベンのハナシにも「自由」が出てきたね。人々の活動の自由を考えるとき、「やりすぎ」とか「いきすぎ」のトラブルや衝突を避けるためにルールも考えないといけなくなる。人々の活動をどうやってうまいこと調整するか。それが「政治」の役割なわけで、第二部は政治の在り方、管理と支配についてもっと踏み込んで考える。
人間は関わり合って生きていかないといけない。その環境の整え方、配慮の仕組みづくりを「政治」だとして、そこに「自由」と「人間らしく生きること」をどう絡めていく?

國分せんせは政治こそ「遊び」が必要なんじゃないか?と言う。提案するのは「遊びとしての政治」。これはすごく斬新な視点だよね!だって政治こそが、目的と手段ありきの活動じゃないの。目的を持たない活動、「遊び」が政治に結びつけるなんて、けしからん!と言われそうなんだけど。國分せんせの言う「遊びとしての政治」について考えるときも、遊び=不真面目、無責任っていう先入観からちょっと離れる必要がある。それは全く不真面目に取り組めば良いって言ってるわけじゃないし、責任をとらなくていいって意味でもない。むしろ、「目的を理由にして手段を正当化しない、責任逃れしない政治」を指しているんだから。

「楽しみ方」を学んでいないと「自由」を楽しむのは難しい

振り出しに戻る問いなんだけど、そもそもアガンベンが言うような「剥き出しの生」以上の価値、目的からはみ出す「自由」を、人々は本当に求めているのか?國分せんせの前著『暇と退屈の倫理学』はその問いに向き合う一冊。

人は自由を求めているようで、自由になると暇になり、暇になると退屈になるから暇を嫌う。したがって自由を拒否するというこの矛盾した人間的事実がある。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

もともとこの問いは、劇作家である福田恆存の「人は自由を求めていない。演じるための役割を求めている」って考えに対して反発する気持ちで取り組んだテーマだそうな。確かに役割は重要なのかもしれない。でも、「役割さえ与えてやればいい」って上から目線に、チクリ🪰と刺されたのかな。

この問いに対して國分せんせが提案するのは、「自由を拒否するのは、自由の楽しみ方を学んでないから。楽しみ方を学ぼう、そして楽しもう!」って視点。
プラス、本書で付け加えられたキーワードは「信じる」ということ。信仰じゃなくて信念のようなもの。何かしらの自分が信じる価値みたいなものがダイジなのかも。「なんでもしていいよ〜、自由だよ〜」ってなんの役割も与えらないとき、何かを信じたり信念を持つことは難しいかもしれない。やっぱり「役割」ってのは重要なんだろうね。それがあって、なにか大切な価値を見いだせる。
そんでもって楽しみ方を学んでおけば、人は自由を求めることができる。自由を楽しむことができるんじゃないか。

その自由は、目的からはみ出した活動にある。目的なき活動、「遊び」の中に。何かのためにアレをしようコレをしようってんじゃなくて、その活動自体を楽しむのが、遊び。チェスのためのチェスを楽しむこと。芸術(表現)のための芸術(表現)に真剣に取り組むこと。そして、人生のための人生を生きること。

人生のための人生にこそ、人生の価値はあるんだと思うな。
使命とか大義とか生きがいってのは、つまるところ、人生のための人生を、愛そする営みの先にあるんじゃないかな。

ドキドキがひそむ迷路の冒険に繰り出そう

最初に書いたように、この本のおもしろさ(哲学すること)は、そのプロセスを楽しむのがメインな。結論だけ出したり要約するのは、遊園地の迷路を入口と出口だけ見学するようなもの。いや、スリリングなお化け屋敷か?その迷路は出てこれなくなる危険があるけど・・・考えることは、危険に向き合うこと!
実際に危険に向き合ってくれてるのは哲学者で、私達は彼らがどんな景色を見ているのか?安全な場所でそれを見れるアトラクションを楽しんでいるだけなんだけども。

それでも迷路に入る前と、出たあとでは外の世界まで見え方が変わっちゃうんだから、オモシロイ。ぜひね、このnoteで紹介したフレーズや内容に少しでもチクリ🪰を感じたなら、実際に手にとって自分の目と頭で楽しんでもらえたら、と思うよ!!


もりもり書くエネルギー(''◇'')ゞ燃料投入ありがとうございます!!