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#1 新しい窓を発見する挑戦

言語は、「世界を見る窓」だって誰かが言ってた。

日本語で会話をして、日本語の情報を見聞きして、日本語で考える私は、「日本語の窓」で世界を切り取っている。英語圏の人は英語で、中国語圏の人は中国語で、目の前にあるものを理解したり、目の前に無いものを表現したり、誰かに伝えたり、伝えられたり、そのやりとりの中で生きている。

言葉は、「世界」と「私」を繋ぐひとつの接点。

「たったひとつ」の接点、ではなくて、いくつかあるだろう中の「ひとつ」の接点なんだけど、この言葉という接点の存在感があまりに大きいために、どうも私たちは「これが世界のすべてだ」と思ってしまうふしがある。

同じニンゲンの言葉でも、日本語と英語の世界の捉え方には微妙な(時には大きな)違いがある。だから外国語を学ぶと、ちょっと違う世界の捉え方を学べるし、自分の世界の捉え方が「たったひとつの世界」じゃないことに気が付く。

眼鏡を付け替えるようなものかな。ちょっと度数とか、レンズの作りや加工が違う眼鏡。外国語という今までかけていたものと違う眼鏡をかけて、世界を眺めてみる。

そうなると、眼鏡の数だけ違う見え方をする世界がある。

そして世界と私の接点は、言葉という眼鏡だけじゃないってことも思い出してほしい。眼鏡はひとつの接点にすぎない、それ以上でもそれ以下でもない。

言葉を通して見た世界以外にも、世界を受けとめる方法がある。言葉以外にも、私という存在を世界に発信する方法がある。

それについて話そうと思うと、言葉を経由しないモノゴトの動き、言葉にならない存在を、言葉で表すことになるわけで、なかなかムズカシイ。でも、やってみようと思う。

世界の全体像を描く曼荼羅

「私と世界の接点」は言葉以外にもある。言葉以外の接点も含めて、世界と私の関係性、世界の全体像を図示したものに、曼荼羅がある。最近は塗り絵になったりアート作品に描かれたり、ちょっと身近なイメージになったかもしれないけど、もともとは仏教とか密教の宗教画として描かれていたもの。

宗教ってのは「世界と私の関係性」について考えた先人がまとめた世界観のことだから、宗教を学ぶと世界観が学べてオモシロイ。地域の差、時代の差が出てくるから、広くピックアップして比較してみるとさらにオモシロイ。

密教の曼荼羅とかユダヤ教のセフィロト(生命の樹)もとっても面白いんだけど、私は西洋占星術をとっかかりに「世界と私の関係性」のハナシをしたい。

西洋占星術で扱う星図はすごくシンプルなんだけど、ここには言葉以外の接点もちゃんと描かれている。これって西洋の曼荼羅なんじゃないかな、って勝手に思ってる。西洋占星術は西洋の世界観をまとめた処世術的なものだから、東洋的な世界観をベースに生きてきた日本人の私がコレを使って世界観を語るとどうなるのかってのも興味がある。

言語以外の接点を意識したときに、どんな世界観が自分の中に立ち上がるのか?どんな世界が見えてくるのか?

言葉ではすくいきれない世界を、言葉でどう表現するか。
noteで挑戦してみたい。

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