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正義病

「あんな凶悪犯は極刑にしろ!何?!擁護するお前は人権を理解しない差別主義者か!被害者の気持ちを考えろ!あんな凶悪犯に人権があると思ってるのか!」

僕は即座にうん、ありますと答える。

例え自分自身の愛する人、大事な人に危害を加えられたとしても同じ答えを言う。
とは言え、僕の感情や気持ちは勿論、別の所にある。
自身がそういう被害者遺族になったら犯人を殺したいほど憎むだろうし、その現場に居合わせ、止める事が出来るならば加害者を○しても止めるがそれは全て僕個人の感情に過ぎない。

その凶悪犯の犯した罪に対して罰を与えるのは我々ではなく法。

それが民主主義国家であり、その法を作り変更できるのは我々が選挙で票を投じた国会議員。

その司法判断が間違っているならば、我々が国の運営を任せている国会議員に法改正を求めるべきだし、それすら不満ならば自らが議員になり変えるしかない。

人は誰しも論理と利害と感情を内包してる生き物であり、状況や場所、関係性によって使い分けている。
他者との繋がり無しでは運営できない社会と言う場で、最も制限を受ける事を「受け入れなければならない」のは個人の感情。

犯罪者が個人の感情のままに罪を犯したのならば、自分の感情で捌く事も許される世界線では日本の最高刑である死刑だけでは足りず私刑も受け入れなければならない。

それでもいいと言う人もいるだろうが、仮に個人の感情が優先される世界で誰かが凶悪な殺人を犯し、被害者遺族が僕だった場合は
「加害者を死刑にしただけでは足りない、あんな凶悪犯を生んだ一族全員にも極刑を与えあいつの血に繋がる人間は一人残らず死んでほしい!」
を望むだろう。
それが通る世界なら迷わずそれを望む。
その中に、仮に自身の大事な人やこれを読んでいるあなたが居たとしてもそれが僕の感情ならばそこに情状酌量の余地はない。
勿論、その犯人が自分の会った事もない遠い親戚でその結果、僕も私刑を受ける事になっても受け入れるだろう。

それが個人の感情から生じる正義で人を裁ける世界である以上。

そういった「個人の感情から生じる正義」をSNS等で表明する人はその覚悟があるんですよね?