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笑い

「多様性」「人の心に寄り添いましょう」「少数派の意見を聞きましょう」ブームの今、笑いの定義を曖昧にしてる光景を見る。
TVで言えば近年は暴力的で人を傷つけない笑いにしましょう、と所謂身体を張ったいじられるリアクション芸人の仕事が無くなりつつあるが、そもそも笑いと言う感情に人を傷つけない意図は存在しない。
微笑だろうが、何かを見聞きして面白いと感じて笑う行為だろうが、人を馬鹿にする嘲笑だろうが笑いと言う感情の中には他者への攻撃性が必ず内包されている。

集団で社会生活を生きる以上、攻撃的な感情をそのまま人にぶつけていては孤立し群れからは排除される可能性が高い。
だからこそ人は笑いと言う一見すると逆の感情の布でくるみ同じ攻撃性という感性を持つ集団と「共感」する事でその空間の平和を保っている。

なので~で笑うのは不謹慎だ!と他の群れや他者に因縁をつけるのは自らの心にある攻撃性の価値観と一致しないだけでしかない。

そして笑いの本質はその攻撃性をどうやって緩和させるかという社会協調性とそれぞれの社会的、地位的階級や家庭からもたらされた知性による所が多い。
笑ってる人間に笑うなは、笑わない人間に笑えと言っているに等しい訳で自分が理解出来ないから笑うな、不謹慎だはかつてある国に存在した独裁者が掲げたスローガンである

「我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。
したがって伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。
たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで○せ。
今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。」

と同じだと僕は考える。