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信じるとさみしいを泳いでいる、それはどちらも主観で嫌になる

信じるって、なんて儚くて主体的で眩しくて脆いのだろう。こんなことばかり考えてしまうくらい、まだ元気ではない。じゃぁ、いつになったら、もう元気って言えるんだろう。

だいすきな友達に距離を置かれている気がする。その真実がどうであっても、そう感じている自分は結局さみしい。辛うじて残っている冷静なわたしは、そのさみしさは妄想だとわかっている。でも、ほとんどのわたしはとても冷静ではいられず悲しいの森の中で迷子になっているから、空いてしまった距離を感じて、もうずいぶん何度も勝手にさみしい。未だにこんな女児みたいなことで悲しくなるなんて、情けなくて恥ずかしい。

元気がないから会いたい、と言ったら何人か優しい友達が晩ごはんを一緒に食べてくれた。なのにその席で元気そうと言われてまた人知れず傷ついていた。安堵してくれただけなのだとわかってる、だけど、賑やかな居酒屋で、元気そうに振る舞うしかできなかっただけだった。元気な日なんて本当にない。何をもって元気と言えるのかがずっと本当にわからない。

どこにいても居場所がなくてさみしいなんて、学生のときに戻ってしまったみたいで、悲しい。最近お友達との電話が多い彼に、わたしのことがいちばんすき?ってそれこそ少女みたいなことを問うていて、本当に不安定だ。うん、と言ってくれるから、わたしはそれで満たされるけれど、それが嘘か真実かなんて、どうやって知れると言うのだろう。だから、信じることは儚くて主体的。何もかも揺らいでいるときに、何かを信じることなんてわたしには難しくて、生きることを見失いそうになる。

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