見出し画像

娯楽の「消費」 vs 「消化」

旅行ってその人の生き方がすごく出るなあ と常々思います。
特に、大きく分けて二つのタイプがいます。

A. 目的地まで行くことに意義を見出す人
B. 旅をしていること自体に意義を見出す人

Aは、例えばパリに行ったら、エッフェル塔やら凱旋門やら、色んな場所に忙しく回って、そこに行ったことが重要なタイプ。一方、Bはパリに着いてもあまりせかせか動かず、そこらへん適当に歩いたり、バゲットかじってみたり、人間を観察したりして、その土地の空気感に身を置くことが軸の人。

Aは「消費」、Bは「消化」 だと僕は考えます。
Aは点であり、Bは線でもあります。

例えば、Bは旅自体に意義があるので、その工程で行った場所や起きたことは全て一本の線に同列に位置します。一見独立しているように見える旅行中の出来事や場所を一本の線にしているのはそこに存在する自分であり、そこから何を感じるか、何を思うか、その思考や感性自体が「自分」自身。

一方、Aタイプの場合、「こういうことがあった」、「こういうところに行った」という事実で旅行が成り立つので、その事実が発生した瞬間に目的は達成されます。この事実は誰向けかというと、もし写真を撮って、他人に後で見せたり話したりしなければこの事実はほぼ価値を失ってしまうので、他人があっての「自分」というのがAのタイプと言えるかもしれません。

まずは旅行を例えに出しましたが、日常でもこの2つのアプローチによってかなり生き方が変わってくると感じていて、日本人にはAのタイプが多い傾向があるような気がしてます。
80−90年代から、海外における日本人のステレオタイプなイメージの代表格は「いつもカメラで記念撮影してる人」なわけですが、これは今回の話と無関係ではないような気がしてます。

どこどこのレストランに友達と行って、写真撮って、「美味しかったねー、またねー」で終わるのが消費。どこかの娯楽施設に行ってドンチャン騒ぎして楽しかったなーで終わるのも消費。こういう消費の娯楽が世界を見回しても日本は特に溢れています。こうして、家にいる時も、通勤中も、仕事中も、プライベートの外出も、そこに連続性のない点の集合体のような生き方が溢れています。

その点と点に連続性を持たせて、線にするのはその人次第です。日々起こる出来事(点)をその先の自分のために活かすためには消化が必要です。消化した先に出てくる点は前の点があったからこそ。それを繰り返していくと一本の線になります。「自分を持っている人」と言われるような人はある意味この線を認識している人だと思います。

周りを気にするなとか、社会性なんて要らないとか、そういう話ではありません。ただ、日本に戻ってきて1年半が経ちますが、あまりにも「周り」や「社会」に意識が集中しすぎていて、そのせいで出てくる愚痴や不満をよく目や耳にします。我々はみんな社会の中で活動することで生活をしているので、それを避けることはできませんが、そこに意識を乗っ取られると、自分の周りで起きていることが自分の意思と関連付けが難しくなってくるわけです。点を線にできないのは、行動を自分で選んでるのではなく選ばされている意識でいるからです。

人生で起きることを完全に自分でコントロールすることはできません。でも起きることを自分で消化して自分のストーリーという線にしていくことはできます。それがわかると、消化できるような時間の取り方をしたり、より消化しやすい行動や場所や人付き合いを選んだり、するようになります。その軸ができると、社会との関係性でも余計なことを自分に持ち込まない健全なものになっていくと思うんですよね。

実は日本では音楽と人の関係性が一般的にかなり薄いと感じるのもこの話が関係してると思っているんですが、その話はまた今度。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?