お題拝借:② 鍵
親父が一昨日亡くなった。
入院していた病院で、僕は看護師から親父の形見だという鍵を受け取った。
少し小ぶりなので、それはママが遺してくれた鍵付き日記帳の鍵だと
直感した。
病院から帰宅し、ママの日記帳を机の抽斗から、久しぶりに取り出した。
赤い皮の表紙で、厚くてずしりと持ち重りのする、時代がかった日記帳だ。
真ん中より少し下に美しいレリーフの施された金属製の帯がぐるりと
巻かれ右のほうに鍵穴がある。
鍵が欲しいという気持ちもあったが、日記はママの記憶を閉じ込めた
ものだから、帯を壊してまで開けようとは思わなかったし、読めなくても
いいと長いこと諦めていたのだ。
開けるのは躊躇した。
しかし鍵を遺してくれたことで親父が僕に向ける愛情が感じられなくも
ない。
親父が僕を見るときの、半ば怯えるようなまなざし。そしてお互いを隔ててきた秘密が、そこにあるような気がして、鍵を挿した。
日記帳は開いた。
そこには、僕を産んでからの日々が綴られていた。
ママの秘密といってもいい。
ママには結婚前に恋人がいたがサーフィンをやっている時に亡くなった。
引きこもって泣き暮らしているママを心配した祖父母が、踏ん切りをつけるようにと、結婚を強く勧めて親父と結ばれた。
祖父母の思った通りママは元気を取り戻し、凪のように平和で愛に満たされた日々が続いた。
しかしママの胸の内には恋人への思いが熾火のように残っていた。
ママはある日、かつて恋人が命を落とした海の見えるベランダから落ちたように見せて自殺することを決心する。
誰にも気づかれないように、こっそりベランダの木製の手すりに力を
加えて、あたかもそこにもたれかかっている時に転落したと
見せかけようとしたのだ。
僕はここまで読んだ時、不意に5歳の時の記憶がフラッシュバックして
戻ってきた。
失われていたジグソーパズルのピースがはまるような、カチッという
音がした。
僕はあの日、ベランダに立って手すりを揺すっているママの後ろ姿を見て、思いっきり抱きつこうと走り寄ったのだ。ママは驚いてこちらを向いた。
それからはストップモーションのように、緩慢な映像が僕の脳裏を流れる。
ママのスカートを目がけて飛び込むと、いい匂いが鼻腔を満たした。
背中にママの柔らかい手を感じると、僕は抱き上げてもらおうと上へ
背伸びするように這い上がった。
ママが少し後ずさったある瞬間、手すりがバキっと嫌な音を立て手ごたえが
消えた。
見たのは下へと落ちていくママの、心から満足したようなに微笑みだった。
後ろから覆いかぶさるように、抱きしめてくれたのは親父だったと思う。
葉巻の匂い、そしてドクドクと心臓の鼓動が高鳴っている感覚が
昨日のように鮮明に蘇ってきた。
僕と親父とは共犯者だったのかもしれない。
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